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桃叟だより

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2016-02-11 | 書窟

『池上彰が世界の知性に聞くどうなっている日本経済、世界の危機』

16-02-07

米よこせ雀2

米よこせ雀

テレビで最近「わかりやすい」ニュース解説者として高名な池上彰氏が対談集の本を出した。題して『池上彰が世界の知性に聞く どうなっている日本経済、世界の危機』。内容は、(1)著者自身のマエセツ、(2)「世界の知性に聞く」という章題のもとにトマ・ピケティ、エマニュエル・トッド、岩井克人(いわいかつひと)の3氏との対談、(3)第二次大戦後の日本経済の節目々々に大きな役割を演じた政府高官、企業経営者7人へのインタビューという3部構成になっている。

このうち第3部は拙老に歯が立つ世界ではないから敬遠して、ここではもっぱら、第1部と、第2部の対談相手がいずれも世界の現在情勢についてある程度マクロで長期的な展望を語っているダイアローグに関心を向けて感想を申し述べたい。

 

池上氏が大学時代にマルクス経済学を学んだといっているのは多少意外だった。その理由は次のようなものだったという。「実は私も数学は苦手でした。それで数学を駆使する近代経済学――今で言うマクロ経済学、ミクロ経済学はあきらめて、あまり数学を使わないマルクス経済学を学ぶことにしました」というのである。前世紀の60年代の末期、日本では全共闘の世代がマルクス主義との訣別に「死ぬような」思いをしたのを目の当たりにした拙老などの世代は、両経済学の違いが数学使用の度合で片付けられるのに多少心外な気持はなくもないが、まあこの場合あまり尖ったことはいわないとして、1950年生まれの池上氏と37年生まれの拙生との間にあるわずか13年の時差のうちに、あたかも違う大陸プレートが出現したかのような精神史的な地殻変動があったに違いないとだけコメントしておこう。

 

日本の思想風土には大正から昭和にかけて、どう否定しようもなく、それが好きか嫌いかに関係なく、マルクス主義が人々の基礎教養になった時代、そしてその時代の空気を吸って育った世代が存在する。それは明治にダーウィニズムが、江戸時代に朱子学の理気二元論が、支配的思想として一世を風靡したのと同じことだ。どれもたんなる個別学説ではなく、世界観思想だったのである。同じ社会の中にいくら反対や批判があっても、それはどこまでも反論としてだ。花田清輝という批評家の名言でいうなら「アンチテーゼはテーゼに規定される」のだ。

 

思い出す言葉がある。「下(しも)をわが苦世話(くぜわ)に致し候心御座なく、国家を治むる道を知り申さず候わば。何の益もこれ無き事に候(下々をわが事のように気苦労にかけ、国を治める道に責任を負わなければ何の用にも立ちません)」(『徂徠先生答問書(そらいせんせいとうもんしょ)』)という一文」である。もとより、徂徠学をマルクス主義に比定するつもりはない。また、既成マルクス主義の功罪を今更あげつらう気もない。ただ、一昔前の良質のマルクス主義の根底には「下をわが苦世話に致す」心があったということを思い出しておくまでだ。

 

氏が二つの経済学を特徴づけて、マルクス経済学は「もう今の資本主義社会は駄目だ、打ち壊すしかないんだという死亡宣告」の処方箋、ケインズ経済学は「いやそうではない、総需要をきちんとコントロールすれば、大恐慌にならずに済むんだ」という処方箋をそれぞれ書いていると要約して見せるのも、読者の理解のために必要な単純化としてわからないではない。しかし、経済学は果たして処方箋を書くだけでよいのかと疑問を投げかけたい気持は残るけれども。もっとも氏自身は現代では「深刻な不況はあるけれど、大恐慌にはならない」という社会常識に寄り添った 見方をしている。だから、今「世界で最も大きな問題のひとつ」として「経済格差の広がり」をクローズアップし、第2部の対談全部に底流させた時も、自然に、格差の問題はいずれコントロールできるだろうという楽観的なムードに包まれているように見える。

 

国際的なベストセラー『21世紀の資本』の著者T・ピケティは日本にも多くの読者がいる。ピケティ理論のエッセンスは「r>ɡ」(株や不動産など資産の収益率は経済成長率を上廻る)という不等式である。これまでずっとそうだったし、今後もそうだろう。ピケティはこの数字を「歴史的な証拠に基づいて」統計資料として提出し、マルクスのように直感と論理と推論のみでアプローチした不備を克服したと胸を張る。そのデータはオンラインで開示されている。このような不等式は、全社会的な富の偏在、アメリカの共和党大統領候補サンダースがいみじくもいった「グロテスクなまでに拡大した」経済格差が実在することの客観的裏付けとして今後広く引照されるだろう。
そしてピケティは問題の解決法として「所得税、相続税、年次の累進性のある資産税」を提案しているのだが、難はそれを誰が超高額所得者に強制できるかの問題にあり、最後には強制実行者として権力の問題に回帰せざるを得ない。権力の問題は、経済外的強制ではあるがいわば臨界領域としてマルクス経済学が内部にに導入せざるを得なかった項目である。事柄は再びマルクス経済学の問題圏内に戻ってしまうのである。池上氏は対談を「この本(『21世紀の資本』)が民主主義の本であることが確認できました」と如才なくまとめているが、果たしてどうなのであろうか。
二人目のE・トッドは、独創的な家族関係論を武器にマルクス主義に異論を唱える歴史人口学者であるが、これまた、別の角度から「経済格差の広がり」を指摘している。ヨーロッパの国際関係に見られる格差である。特に、ドイツとギリシャの間で顕著な経済的→政治的力関係の落差。トッドは「第1次大戦前の帝政ドイツ、1930‐40年代のナチス、そして21世紀のこれから」と三度にわたる実体験にもとづき、「合理的であまりに強すぎるドイツ」が「いずれ理性的な態度を逸脱していくだろう」とちょっと不吉な予言をしている。最近におけるその現れが、何あろう昨年日本でも大きな話題になったギリシャの財政危機である。ギリシャが債務減免や返済期限の猶予を求めたのに対して、ドイツは強く緊縮財政を主張して引かなかった。
今回のコラムの冒頭に「米よこせ雀」と題する写真を貼り付けたのは――だいぶ前の「デモクラ雀」もそうだが――拙老が庭にやって来るスズメたちの姿をギリシャの民衆に重ね合わせて見ているところがあるからだ。テレビの論調では働かずに要求ばかりしている、けしからんとかなり否定的だったようだが、拙老などはむしろ応援したい気分だった。ドイツはえらくギリシャを後進国扱いするけれども、考えて見りゃデモクラシーだってギリシャの方が大先輩ではないか。何てったって先様は西暦紀元前からデモクラティアの本場なのだ。民主主義の酸いも甘いも知り尽しているのではなかろうか。

 

[ギリシャ経済の再生のためには債務の減免が不可欠である」とトッドはいうが、その解決方は「昔からまるで変わらない」ドイツの強引な政策でついに実現することはなかった。自国フランスの隣に「強大すぎる」ドイツを持っているトッドは、対談の結びで池上氏に「あなた方日本の隣には、デカすぎる中国がある。そこがお互い悩ましい問題ですね(笑)」と話を振り、氏は苦笑して「冗談ではないですよ」と受け流すのだが、実はこのやりとりには、民主主義とデモクラシーをそう無邪気に等置してよいのかというかなり深刻な問いかけが孕まれている。
さて、三人目の対談相手の岩井克人氏については、日頃そのユニークな貨幣論から多くを学んでいる拙老としてはいずれ本格的に勉強するつもりである。残念ながら、主要な話題になっている「日本的経営」論にはあまり興味がないとしかここではいえないが、それでも一つ、池上氏との対話の中で、日本資本主義と中国経済との関わりに触れて発言したことが、おそらく偶然でなく、現今の中国株バブルが世界連続不況の引金になった事実を予見しているように思えるので、その点だけは記しておきたい。岩井氏はいう。
「今までなぜ大丈夫であったかといえば、中国経済が実践してきた資本主義というのは、要するに産業資本主義といわれている、古い形態の資本主義だからです。
これはカール・マルクスが前提としていた資本主義で、機械制工場で安い労働者を使って大量生産する。イギリスの産業革命後の資本主義がこれにあたります。
…… …… ……
共産党は投資ではなく消費による内需拡大政策に転換をはじめた。その政策のひとつが住宅振興だったんですけど、すぐ行きすぎて、住宅市場がバブル化しはじめる。習近平政権になって株式市場へと資金が流れるよう意図的に動かした。」
筋の通る説明である。そして、この間に生じた不良債権が溜りに溜ったマグマとしてはじける時、「リーマンショックと似たような衝撃」が周囲を襲うだろう。もちろん日本をも。そんな危機感を抱きつつ、氏はアベノミクスにも一言せざるを得ない。。今は「日本経済を内需中心に立て直して、中国バブル崩壊に備えるのが、アベノミクスの最大の存在理由であるとすら、私は思っています。しかし、いま安部さんはアベノミクスそっちのけで安保法案一辺倒なので、ちょっと心配になってきます。」

 

『池上彰世界の知性に聞くどうなっている日本経済、世界の危機』   文藝春秋刊

2016-02-08 | 日暦

『花の忠臣蔵』評判

そろそろ『花の忠臣蔵』の書評が出揃う頃です。発行は去年の12月10日ですから今日で二月(ふたつき)近くなります。これまでの経験からいうと、毎回、刊行した本の世評――もちろん、たいがいは「売れない」という方向――が定まる時分なのです。たとえ一つでも新聞に書評が出れば、出版社は喜んでくれます。酷評でも悪口でも構いません。「悪名は無名に優る」という諺もあるそうです。

もとより人様に批評して頂いて、あれこれ文句をいえる立場ではございません。ですが、書かれるもののすべてが著者の気に染むかどうかはおのずから別問題だと存じます。いかにも逆さまながら、こちらから先方の読み方に注文を付けたくなります。歌舞伎のセリフで申すなら、「どなたもまっぴら御免なすって」というところです。といっても、拙老には今更『花の忠臣蔵』執筆の意図やら動機やらをむしかえすつもりはありません。また、既成書評家諸氏が書いて下さった文章を論評することも致しません。その代わりに、拙老が読んで「わが意を得たり」と快哉を叫び、「なるほど本書が言いたかったのはこういうことだった」と痛感させられた文章を以下に引用させて頂く所存です。多少我田引水に見えるかも知れませんが、引用元は、20年ほど前拙老の学生だった石原隆好氏の私信です。御本人は再録を快諾して下さいました。

なお同氏は現在インターネットにコラム「新・鯨飲馬食記」を連載中であり、時折、端倪(たんげい)すべからざる読書家ぶりを発揮して、犀利な書評を発表しておられます。本欄の読者諸賢もぜひ御一読を

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『花の忠臣蔵』御恵投有り難うございました。

貧乏暇なしで仕事に追われておりましたが、昨日一気に読み上げました。

先生のブログ書評を拝読していても感じたことですが、具体的な歴史上の事象から超歴史的(汎歴史的?)な精神のアーキタイプを透視する視線が印象的でした。『花の詩学』の著者であればそれも当然の帰結と言えるのですけど。

法制度を越えた(法制度の地下に伏流する)ある倫理感覚を瀆されたと思った時に、誰いうともなく「コレハオカシイ」と呟き出すそのシンクロニシティがよく伝わってきました。とはいえ、この「空気感」が大勢を左右する体質、ちょっとやり切れないなあと思うのが半分の感想ですが(幕閣の「如何なものか」的官僚主義とそれは表裏一体をなすのではないか)。

もう半分は、あとがきで書いておられたような、《百万都市で、みんながワクワクしながら見てみないふりをするなか、集団で老人を切り刻むテロ行為》が、これはもう無条件にオモシロイと感じてしまうしかない、という無責任な劇場感覚です。言うまでもなく正義や忠義やといった徳目とは無縁のところで。民衆=the Great Beastとはよく言ったものです。野獣だけに端倪すべからざる直観も持ってるのでしょうが。

 

だからこそ余計に徂徠の透徹が光りますね。法理上の正義/不正では本来事切れない事象を、政治・社会的には穏やかに執り成し、法的には鮮やかに土俵に引きずり込んで決着を付けて見せたところ、さすがは随一の思想家とあらためて感心しました。

風太郎さんが言ってたことですが、忠臣蔵がなければ江戸はいかにのっぺらぼうの時代で終わっていたことか。いかにも日本的なエトスが産んだ事件=伝説がまた逆に日本人の感覚を規定形成していくという、まさに歴史の弁証法そのもののサイクルに一枝の花を捧げて下さいました。なんだか書評的な締めくくりになっちゃいました。

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2016-01-23 | 日暦

わが現在地――「ゲンロン」創刊号をめぐって

ゲンダイ表紙

去年の暮(2015年12月)、批評雑誌『ゲンダイ』が創刊され、「特集 現代日本の批評」と銘打った「共同討議 昭和批評の諸問題 1975-1989」が載っている。主宰の東浩紀(あづまひろき)氏が司会をして、市川真人(いちかわまこと)・大沢聡(おおさわさとし)・福嶋亮大(ふくしまりょうた)の3氏が加わった4人の座談会である。主として1970年代生まれの新進批評家だ。80年代に生まれた人もいる。

この座談会は、かつて『季刊思潮』『批評空間』誌上で前世紀の80年代になされた共同討論「近代日本の批評」(柄谷行人・蓮見重彦・三浦雅士・浅田彰)が打ち出したパノラマ図を受け継ぎ、それをその通りにはやれないといわば否定的媒介にして、新世紀の問題状況に立ち向かおうとしている。その意図や壮。拙老はたいへん好意的に見る。が、現役世代の仕事をあれこれ論評するのは拙老のニンではない。ただ、何のはずみか、同座談会には一ヶ所だけ拙老の名前が出て来るところがあるので年甲斐もなく嬉しくなり、それを機会に物を言ってみようというわけだ。

共同討論の中で、大沢氏が発言したことを、東氏がこう引き取っている。

大沢 前田愛や野口武彦なんかは、研究者と批評家の中間に位置しましたが、近現代ではなく近世の専門家ですね。それが強みになっている。

東 いまの「カルチャー批評」に欠けているのは、まさにその距離感ですね。まさに「外部」。外国や過去から現代を見る視点。

へえ、そんな風に見えるのか、と拙老は感心する。買いかぶりもいいところだ。いつだったかももう思い出せないが、かれこれ35年ほど前のこと、突然柄谷氏から電話をもらって、「近代日本の批評」のシンポジウムにお呼びがかかったのである。参加したのは「大正篇」と「昭和篇」の一部だった。亡くなった前田愛氏の代役だったのだと思う。めちゃくちゃ緊張したのを覚えている。「外部」から見るどころではない。当時この業界では、「外部」という言葉――柄谷語だと思う――がやたらに流行していて、パソコンができなかった拙老などは「野口さんは江戸時代の人だから」とさんざんからかわれたくらいだ。江戸時代という日本の「内部」専門で、とても「外部」なんかお呼びではなかった。その後中央の動向からさっぱり縁が切れたのもそのせいだろう。

こういう新現役の進出によって、ほぼ10年ごとに交替する「新思潮」が小気味よく“相対化”されてゆく光景には、感嘆と詠嘆こもごもの複雑な感想を持つ。たとえば「柄谷さんは“勉強してないのに本質を突く”とか“海外の動向をぜんぜん知らないのに世界の最先端”みたいなことを言われすぎなんだよね。一種の神話がある」(東)といったような発言を見よ。先達をバッサリ斬る気魄に満ちているではないか。だがこれもけっきょくのところ、日本の思想界でこれまでずっと続いてきた“先進世代を相対化するゲーム”の継続版にすぎないのではあるまいか。拙老などほんの木っ端で結構であるが、前田愛氏は「プレニューアカ」(大沢)に位置づけられているから、10年新陳代謝論によれば80年代に消え去ったことになる。拙老も同断である。つまり、すでに「過去の人」の扱いだからいっそ気が楽だ。

80年代の「外部」はどこへ行ったのだろう。あれから無慮35年、拙老は「内部」にとどまりっぱなしで、いまだに忠臣蔵などに引っ掛かっている始末。その間、外界では輸入思想の新品入れ替えがどんどん進み、空回りして、一度見たような光景を繰り返しているような気がする。

今世紀はもう16年を数え、「昭和」の文物は今や回想と再評価の対象になった。昭和人にとっての「明治」のような存在と化したのである。拙老のようにもうだいぶ過去の人物になった者にも、まだ「現在地」を探すよすがはあるのかもしれない。 了

 

2016-01-17 | 日暦

忘却の女神

あてもなしに拙老の名を見出し語にしてネット・サーフィングをしていたら、幸いヒットしたまではよかったが、「ご存命のようです」と注記してあったのには苦笑させられた。なるほど、拙老もいつのまにか、世間からそう見られて当然の年齢に達しているわけか。古代ローマのキケロも「人生における老年は芝居における終幕のようなもの」(『老年について』、中務哲郎訳)と言っている。いずれ幕は下りる。いつまでも世間はスポットライトを浴びせ続けてはくれまい。

〽数ならぬ身にはあれども梓弓入りてまじらん世々の人数

この一首に篭めたギャグ(何が本歌か?)が通じない人はまだ若い証拠だと思ってどうかご安心下さい。拙老のひとりよがりなのも分かっている。年齢の証明書のようなつもりで口ずさんでみたわけなり。

拙老には世間から忘れ去られることよりも、もっと切実に身に迫る問題がある。他人が拙老を忘れるのは、自分が自分自身を忘れるよりまだはるかにマシなのである。

近頃、身近な人々の近況ニュースに「誰それさんがアルツハイマーの療養中です」といった知らせが多くなって淋しくなる。症状はいろいろあるようだが、記憶が壊れてゆくという点では共通している。「忘却とは忘れ去ることなり」というのは、この前の戦争が終わって間もない頃、一世を風靡した名高いラジオ・ドラマの言葉であるが、――まだ覚えている人はあまりいるまい――一種「忘却力」とでも呼べるような不思議な権能が老人たちに支配力を揮い始めている。拙老にとっては、どうもこちらの方が主敵であるらしい。

忘却は一見やさしい慰謝のかたちを取る。忘却は女身である。忘却の女神レテ。ギリシャ神話よれば、レテは死の神タナトスの姉妹であり、冥府に流れ込む大河の一つであり、よく「三途の川」と訳されるスティンクスの支流であるという。うっかりその流れに身を任せたら、いつしか冥府に運ばれかねない危険な水路である。これに対抗することはできないのだろうか。

ギリシャ神話には、なるほど記憶の女神ムネモシュネもいる。ヘシオドスの『神統記』によれば、ゼウスと交わって詩神ミューズを産む女神だ。しかし残念ながら「記憶」が「忘却」と抗争してこれに打ち克ったという伝承を聞かない。ヘシオドスも、ミューズがひとたび甘美な声で神々の讃歌を歌えば、たちまち人は「身の憂さを忘れ 切ないこともなにひとつ 思い出しはしない」(広川洋一訳)という状態になり、けっきょく、もう一つ種類の違う忘却に陥ってしまうからである。

ギリシャ神話に限らず――北欧神話でも記紀神話でもよい――神話的語彙がよく精神医学の用語に使われる――たとえばエディポス・コンプレックスとかナルシシズムとか――のは、神話に語られる原始的・野性的な、直情的な心性が人間精神の深層と通い合うところがあるからだ。語源(言語の深層)がしばしば人類の過去を明らかにするのと同じ構造である。このような用語圏を「神話的深層」の領域と呼ぶことにしよう。幼時だけが問題なのではない。老年期にさしかかった人間もまた、思考とか判断力とか精神の位相ばかりか、知能や本能をつかさどる脳髄のレベルで、数々の「神話的深層」でしかお目にかかれないような異象にめぐり会うのだ。

高齢化社会とは、老年という環境条件が普遍化した状況でいくつもの「神話的深層」がすれ違うことに他ならない。人は誰でもこうした各自にとって未曾有な、未踏の界域に踏み込んでゆくしかないのだ。今や、各人自前の個人的神話が活動期を迎える頃合だろう。

拙老もなりふり構っていられる年齢ではもうなくなった。若い頃にはその存在にさえ気付かなかった人や物と目を見交わしたり、声を掛けたりすることが多くなったとしても別に驚くには当たらない。最近、忘却の女神レテがたいへん親密に寄り添ってくるように感じられるのも決して嘘ではない。

◯ 水音も忍びがちなり夜の川太古ながらにレテは流るる

◯ われはしも忘れ形見ぞ人みなの思ひ出失せし後に残れる

2016-01-09 | 日暦

デモクラ雀

__整列雀火鉢雀

スズメはご存じの通りひどく警戒心が強い鳥で、庭に群がって遊んでいるのを覗いただけでもすぐパーッと飛び去ってしまう。

ガラス窓を開けるなどは論外で、ガラス越しに眺めようとちょっと動くのもダメだ。たちまち散ってしまって、しかも憎らしいことには少し離れた場所からこちらの様子を窺っている。調べて見たら、スズメの視界は340度とやたらに広く、危険と判断して飛び立つ距離は5メートルから8メートルあるのだそうだ。スズメは極度の臆病さと用心深さで可憐な命を守っているのである。

スズメたちとつきあいがはじまってからもう6年ぐらいになる。大病をした後、リビング・ルームに置いた電動ベッドからガラス戸越しに庭をぼうっと眺めていると、空っぽのプランターで2,3羽のスズメが砂遊びをしているのが眼に留まった。何やら一所懸命そうなのが気に入って、米粒を与えてみた(実際は荊妻が与えました)のが始まりだった。生米は啄んだが、いったん炊いて飯にした米にはそっぽを向いた。麦をやったら、最初は残し、こっちも意地になってそのままにしていたら二日目にやっと食べた。コシヒカリを与えたら、嬉々として口にした。セレブのスズメなのかもしれない。

つきあいが長くなるといろいろなことが分かってくる。初めのうちはほっそり痩せていたのに、この頃はまるまると肥って憎たらしいくらいだ。1年ごとに世代交替があって、親スズメが子スズメに飛び方やら餌のついばみ方を明らかに教えている。今はみんな成鳥に育ち、仲間内ではたがいに識別しているのだろうが、人間の眼にはまるで区別が付かないのは困る。みんな同じ模様で、同じ顔をしていて、同じ表情で餌を催促する。揃うといやに要求がましいのだ。

集まる数は年々増えてくる。一日に一回、決まった時間になると、まず「斥候」のスズメが姿を現し、庭木の枝に留まってじっとこちらを観察する。そしてどんな口コミをしたのか知らないが、ちゃんと連絡が取れたと見えて、所定の場所に米を蒔く時分には20羽ぐらいがフェンスの上にずらりと勢揃いして、人を見下ろしている。時には米の蒔きようが遅いとでも言いたげに、不服そうに口を尖らせてこちらを見るようになった。

この分でゆくと、スズメたちの要求はいよいよ高くなり、日に日に数は多くなりそうだ。いつかテレビで見たギリシャのデモを思い出しておかしくなった。あの時も勝手だとか注文がうるさいとかけっこう悪評もあったが、うちのデモクラ雀どもと同様、生活はそれぞれ大変なのだろうと思った。

2016-01-02 | 日暦

平成丙申新春

新年おめでとうございます。

平成26年(2016)の干支は丙申(へいしん、かのえさる)です。今年はサル年だというので年賀状のデザインにお猿さんが氾濫しています。近年の日本ではもっぱら「十二支」の申に関心が向けられ、「十干」の方はさっぱりのようです。

一口に「干支」というけれども、そもそも「干支」は「十二支」と「十干」を合体させたものだそうです。「十二支」は殷の時代からあり、「十干」は戦国時代に始まると申します。農耕社会の円満な十二進法の文化に殺伐な牧畜・騎馬民族の文化――それが十進法だとまではいいませんが――が乗っかり、無理に接合したもののように思えないでもありません。そのせいか、十二支の「丙」を見ても、「申」を見ても、「丙午」(ひのえうま)の女は夫を取り殺すとか、「庚申」(こうしん、かのえさる)の夜にセックスをして生まれた子は泥棒になるとか、ろくでもない組み合わせもできます。

毎年恒例の戯詠腰折れを臆面もなく何首か。

◯ 思ひきや干支(えと)ひとめぐり過ぎ越してひのえのさるに又逢はんとは

◯ ひのえでも申でよかった午ならば残る月日をいかにかはせん

◯ 山王の桜に猿が勢揃いひのえの春を手を拍って祝(ほ)ぐ

3番目の戯詠には多少の説明がいるでしょう。この作には「本歌」があります。江戸時代に流行った地口狂歌の一つに「山王の桜に猿の三下がり合の手と手と手手と手と手」というのがあります。「三下がり」は猿が三匹ぶらさがっている場面と三味線の弾き方の名称とを懸けています。下の句の「手と手と手手と手と手」は三匹の猿が手をつなぐのだから手は六つあるという理屈ではなくて、「テトテトテテトテトテ」という口三味線の音色なのです。江戸音曲は捨てたものではありません。

百聞は一見にしかずと申しますが、この場合は「一聴」でしょう。地口狂歌の実際は落語『雑俳』(立川談志口演のもの)、音曲の方は長唄『外記猿(げきざる』の素囃子(すばやし)――長唄の詞章にはこのフレーズなし――で視聴できます。どちらもユーチューブで簡単に見られます。

本年もぜひ御贔屓に。

 

2015-12-26 | 口吟

コンガラ譚詩

何年前のことだろうか、髄膜炎・脳梗塞・脳出血と三つの病気に短期間に立て続けに襲われ、しばらく入院していたことがある。その期間ずっと長い夢を見ていた。といっても時々途切れ、その区切りごとに拙老は転生して、新しい“自己”を生き始めるのだった。つまり、いま病院にいるのは無数の、無限回転生する“自己”の一つだった。

退院してから、昔の教え子たちに連れられて車椅子で浄瑠璃寺に行った。そこにコンガラ童子の像があって、「やっと来たか」という顔で拙老を迎えてくれた。何世紀も待たせたような気がした。

コンガラは初発(はじめ)を知らず未現(ゆくすえ)も時空の海にただよへるなり

思ひ出でよ未生以前のものごころ時空(とき)をめぐりてわれと生(あ)れにき

コンガラは人を恋ふとて億兆の時空を超えてぞ娑婆に来にける

コンガラは人恋しとて山城の瑠璃の御寺に居場所定めつ

コンガラは人里恋ひて津の国の芦屋の里に住みまぎれけり

コンガラは薬師慕ひて因陀羅(インダラ)の網のくまぐま泣いてめぐりぬ

津の国の芦屋に年を経るわれをもしコンガラと問ふ人もなし

コンガラは素性知られず明王の脇に澄まして立つてゐるなり

hiro3582.hatenablog.com/entry/2015/06/23/082353hiro3582.hatenablog.com/entry/2015/06/23 /082353 より

コンガラ童子像

2015-12-19 | 書窟

江橋崇著 『かるた』

「かるた」という言葉には奇妙な二義性がある。もともと外来語なのに、いつのまにか日本語になりきっている。「かるたを取る」といえば、百人一首のことだし、「かるたを打つ」といえばトランプのことだ。この微妙な使い分けからは、すでに日本の風土に溶け込んだカルタ文化の特質が見てとれよう。

つい最近、面白いニュースをテレビで見た。さぬきうどんのコマーシャルのために募集した「いろはがるた」の一枚にクレームが付いたというのである。「つ」の読み札に「強いコシ 色白太目 まるで妻」という川柳が入選したのはよいが、それに不穏当な語句があるという抗議の投書が舞い込んだそうなのだ。投書子のセンスについては別に論評しないが、たとえばこんなことがテレビニュースになるほど、カルタ文化は人々の生活に浸透しているわけである。

江橋崇(たかし)氏の近著『かるた』(ものと人間の文化史173 法政大学出版局)が刊行された。著者の本職は憲法学を専門とする法学者で、当然この分野の著書もある。だが同時に遊戯史学会の役員もしているし、本書と同じ文化史シリーズで『花札』も出している。マージャン関係の圖録も監修している。遊び事、勝負事も好きな法律家らしいのである。

本書には氏の深い造詣が惜しまず注ぎ込まれ、これまで蒐集した三つの資料群を支柱にしている。①状況証拠としての文献記録、②物的証拠としての実物(残存するウンスンカルタなどの品物)、③法制史的環境(かるた賭博禁令公布・花札販売の解禁など)の三つである。特に読者に有難いのは図版入りで示される豊富な「物品史料」だ。マニアには垂涎(すいぜん)の代物だろう。

さて本書の眼目は、日本のこうしたカルタ文化史の流れの中で特別な位置を占めている「百人一首」論である

日本では百人一首が、ヨーロッパの聖書、中国の四書五経、イスラム社会のコーランと並んで、「社会の共通言語の骨格」をなしたとするのが筆者の持論だ。百人一首は、近代の「標準語」が作られるよりはるか以前の時代から、教養人共通の必須知識として共有された。それが高尚な古典文化教育にとどまらなかったのは、カルタの大衆的な遊技性に媒介されたからである。

その際決定的な役割を演じたのは、百人一首が他のカード類と違って、「表配りのゲーム」だった点にある。秘匿された不完全な情報から相手の持ち札や狙いを推理する「裏配り」に対して、取り札が全部あけっぴろげに開示される「表配り」では、記憶を生かした情報処理のスピードで勝敗が競われる。著者はこの配り方の差異に「驚異的な発想の転換」を見る。そこに外来文物をみごとに咀嚼して自国の伝統に取り込んだ日本のカルタ文化の創意があるという。

総じて、この一冊をユニークなカルタ文化論に仕上げているのは、自国に「百個の詩篇を人々が共通して記憶しているという高度の文化」の伝統があることをを誇ると同時に、歴史上何度も施行されてきた禁令にもかかわらず、しぶとくカルタの諸形態を生き延びさせてきた人々の射倖性・賭博愛好性の伝承にも周到な目配りを忘れていないバランス感覚である。百人一首にも花札のように得点を計算して勝負する「むべ山」というバクチの仕法があったくらいだ。「むべ山風を嵐といふらん」という下の句の札を取った者は「役札」として銭何文かを得るといった寸法である。日本のカルタ文化史はこういったダイナミックな均衡の上にずっと成り立って来ている。後世にもぜひ持ち伝えたいものだ。

本書評は12月下旬に諸新聞に配信される『共同通信』の書評欄に書いた原稿に手を加えたものである。

2015-12-12 | 日暦

『花の忠臣蔵』が新刊されました

 

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新刊『花の忠臣蔵』が発売されました。12月14日の討ち入り記念日を当て込んでいます。この一冊で、これまで『忠臣蔵――赤穂事件・史実の肉声』・『忠臣蔵――「喧嘩」から見た日本人』・『花の忠臣蔵』と続けた忠臣蔵三部作は打ち留めとなります。

作者には、この忠臣蔵シリーズを通じて見えて来たものが一つあります。それは、日本に底流する時間のうちには、独自の波形を持った歴史のパターンがあって繰り返し表面に現れて来るのではないかということです。少なくとも、江戸元禄と平成の現代日本との間には、たんなる類似性にとどまらぬ原質的な同一事象の再現が見られます。

どちらの時代でも、人々は常に自分の意志、自分の選択、自分の責任で、自主的な行動を取っていると信じています。ところが多くの場合、人間の行為は当人の恣意や主観を越えて、知らず知らずに、客観的な条件のもとでそうせざるを得ないという拘束を受けています。どうも根源は、日本では元禄の頃から万能の力を揮い始めた貨幣にあるようです。貨幣はその所有者にもままならぬ力を持っています。元禄でも平成でも、人間社会は「貨幣の専権」に振り回されています。

『花の忠臣蔵』の世界では、赤穂事件がその当事者ばかりかその周辺に、近くから遠くまでを、上は将軍から下は庶民までを、どんなに広く深く巻き込んだかを描いたつもりです。右の眼に元禄時代、左の眼に現代を配置して、さながらステレオスコープのように浮かび出る立体的な視界から、拙老のいう反復的・回帰的な歴史のパターンを感じ当てて いただければ幸いです。

2015-12-05 | 日暦

秋山虔先生を悼む

平安文学者の秋山虔先生の訃報を知って、悲しみに暮れています。心から哀悼の意を表します。

秋山先生は文化功労者にもなられた方ですし、『源氏物語』研究の第一人者でいらっしゃいましたから、一般社会からも学会からもいろいろな追悼の言葉が寄せられると思います。後継者もお弟子さんも大勢おられます。平安文学の徒でもなく、ただ講筵(こうえん)の端に連なった程度の不肖の弟子にすぎなかった拙老の分際では多少おこがましいかもしれませんが、御生前の先生から深い薫陶(くんとう)を受けた者として一言先生の御学恩に感謝を述べたいと思います。

故あって早稲田に6年、本郷に6年――都合12年間学生生活を送り、それからすぐ神戸に職を得て定年まで居続けた、つまり一生の大部分を学生気分で過ごしてきた不肖拙老のことですから、その間ずっと定まった師というものはありませんでした。今日曲がりなりにも物を書いて暮らせるようになった下地は、おおむね独学によるものです。今でも時々そのマイナス面が出ますが、おおむねプラス面の方が多かったという自信を持っています。

それでもこれまでほんの時たま、心から「先生」とお呼びしたくなる人物にめぐり会いました。そしていうまでもなく、秋山先生こそはそんな人物の一人でした。

思い出すのは、最初の授業の日です。はにかんだようなお顔で教壇に立たれた秋山先生は、学生に向かって語りかける口調で講義を始められたのです。新鮮な驚きを感じました。今はどうか知りませんが、当時の本郷では、国文学の先生の大部分は用意して来たノートを教壇でゆっくり読み上げ、学生は必死でそれを一言一句聞き逃すまいと自分のノートに書き取るという方式が当たり前だったのです。チョー真面目な学生の中には、時折息抜きとして授業の合間にさしはさむ雑談や冗句まで忠実に書き写す人もいました。クシャミまで筆記した笑い話もあるくらいです。

そんなノート読み上げ/書き取り方式全盛の時代に、秋山先生の講義スタイルは、清新であり、魅力的でした。話が高揚してくると頬を紅潮させ、間々言葉を句切って宙に眼を凝らして、「あ、先生今考えているな」と実感させる表情からは伝説として語り伝えられる往年の美少年ぶりも仄見え、何よりも、考えて考えぬく思惟過程がそのまま言葉を生む、思考現場の実況に立ち合っているという本物の臨場感を与えてくれました。

先生の講義ノートを作るのは一仕事でした。ノート読み上げ方式と違って、先生のスタイルの場合、耳で聞いた言葉をはじから書き付けるという具合にはゆかない。耳でキャッチした内容をいったん咀嚼(そしゃく)し、自分流の言葉に言い直して文章にしなければならないのです。意図を取違えたらおしまいです。耳で聞き取ったことを記憶に留めておきながら、それを自分の文脈でノートに書いてゆく。だから聞くことと書くことの間にはいつも「時差」があります。緊張のしっ放しでした。同時に、毎回の講義はそういう種類の稀な緊張を体験できる又とない時間でした。

これが学恩でなくて何でしょう。そんな貴重な時間を与えて下さった先生にはいくら感謝してもしきれない思いです。

――最後に、深い感謝と追悼の気持を籠めて、つたないながら哀悼の歌2首を捧げることをお許し下さいますように。

きみいたむ声も涙に途切れつつ光隠れしよにまどふなり

木々の葉も紫鈍(むらさきにび)に散り敷きて踏み分けがたき秋 の山かな

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