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桃叟だより
2016-01-09 | 日暦

デモクラ雀

__整列雀火鉢雀

スズメはご存じの通りひどく警戒心が強い鳥で、庭に群がって遊んでいるのを覗いただけでもすぐパーッと飛び去ってしまう。

ガラス窓を開けるなどは論外で、ガラス越しに眺めようとちょっと動くのもダメだ。たちまち散ってしまって、しかも憎らしいことには少し離れた場所からこちらの様子を窺っている。調べて見たら、スズメの視界は340度とやたらに広く、危険と判断して飛び立つ距離は5メートルから8メートルあるのだそうだ。スズメは極度の臆病さと用心深さで可憐な命を守っているのである。

スズメたちとつきあいがはじまってからもう6年ぐらいになる。大病をした後、リビング・ルームに置いた電動ベッドからガラス戸越しに庭をぼうっと眺めていると、空っぽのプランターで2,3羽のスズメが砂遊びをしているのが眼に留まった。何やら一所懸命そうなのが気に入って、米粒を与えてみた(実際は荊妻が与えました)のが始まりだった。生米は啄んだが、いったん炊いて飯にした米にはそっぽを向いた。麦をやったら、最初は残し、こっちも意地になってそのままにしていたら二日目にやっと食べた。コシヒカリを与えたら、嬉々として口にした。セレブのスズメなのかもしれない。

つきあいが長くなるといろいろなことが分かってくる。初めのうちはほっそり痩せていたのに、この頃はまるまると肥って憎たらしいくらいだ。1年ごとに世代交替があって、親スズメが子スズメに飛び方やら餌のついばみ方を明らかに教えている。今はみんな成鳥に育ち、仲間内ではたがいに識別しているのだろうが、人間の眼にはまるで区別が付かないのは困る。みんな同じ模様で、同じ顔をしていて、同じ表情で餌を催促する。揃うといやに要求がましいのだ。

集まる数は年々増えてくる。一日に一回、決まった時間になると、まず「斥候」のスズメが姿を現し、庭木の枝に留まってじっとこちらを観察する。そしてどんな口コミをしたのか知らないが、ちゃんと連絡が取れたと見えて、所定の場所に米を蒔く時分には20羽ぐらいがフェンスの上にずらりと勢揃いして、人を見下ろしている。時には米の蒔きようが遅いとでも言いたげに、不服そうに口を尖らせてこちらを見るようになった。

この分でゆくと、スズメたちの要求はいよいよ高くなり、日に日に数は多くなりそうだ。いつかテレビで見たギリシャのデモを思い出しておかしくなった。あの時も勝手だとか注文がうるさいとかけっこう悪評もあったが、うちのデモクラ雀どもと同様、生活はそれぞれ大変なのだろうと思った。

2016-01-02 | 日暦

平成丙申新春

新年おめでとうございます。

平成26年(2016)の干支は丙申(へいしん、かのえさる)です。今年はサル年だというので年賀状のデザインにお猿さんが氾濫しています。近年の日本ではもっぱら「十二支」の申に関心が向けられ、「十干」の方はさっぱりのようです。

一口に「干支」というけれども、そもそも「干支」は「十二支」と「十干」を合体させたものだそうです。「十二支」は殷の時代からあり、「十干」は戦国時代に始まると申します。農耕社会の円満な十二進法の文化に殺伐な牧畜・騎馬民族の文化――それが十進法だとまではいいませんが――が乗っかり、無理に接合したもののように思えないでもありません。そのせいか、十二支の「丙」を見ても、「申」を見ても、「丙午」(ひのえうま)の女は夫を取り殺すとか、「庚申」(こうしん、かのえさる)の夜にセックスをして生まれた子は泥棒になるとか、ろくでもない組み合わせもできます。

毎年恒例の戯詠腰折れを臆面もなく何首か。

◯ 思ひきや干支(えと)ひとめぐり過ぎ越してひのえのさるに又逢はんとは

◯ ひのえでも申でよかった午ならば残る月日をいかにかはせん

◯ 山王の桜に猿が勢揃いひのえの春を手を拍って祝(ほ)ぐ

3番目の戯詠には多少の説明がいるでしょう。この作には「本歌」があります。江戸時代に流行った地口狂歌の一つに「山王の桜に猿の三下がり合の手と手と手手と手と手」というのがあります。「三下がり」は猿が三匹ぶらさがっている場面と三味線の弾き方の名称とを懸けています。下の句の「手と手と手手と手と手」は三匹の猿が手をつなぐのだから手は六つあるという理屈ではなくて、「テトテトテテトテトテ」という口三味線の音色なのです。江戸音曲は捨てたものではありません。

百聞は一見にしかずと申しますが、この場合は「一聴」でしょう。地口狂歌の実際は落語『雑俳』(立川談志口演のもの)、音曲の方は長唄『外記猿(げきざる』の素囃子(すばやし)――長唄の詞章にはこのフレーズなし――で視聴できます。どちらもユーチューブで簡単に見られます。

本年もぜひ御贔屓に。

 

2015-12-26 | 口吟

コンガラ譚詩

何年前のことだろうか、髄膜炎・脳梗塞・脳出血と三つの病気に短期間に立て続けに襲われ、しばらく入院していたことがある。その期間ずっと長い夢を見ていた。といっても時々途切れ、その区切りごとに拙老は転生して、新しい“自己”を生き始めるのだった。つまり、いま病院にいるのは無数の、無限回転生する“自己”の一つだった。

退院してから、昔の教え子たちに連れられて車椅子で浄瑠璃寺に行った。そこにコンガラ童子の像があって、「やっと来たか」という顔で拙老を迎えてくれた。何世紀も待たせたような気がした。

コンガラは初発(はじめ)を知らず未現(ゆくすえ)も時空の海にただよへるなり

思ひ出でよ未生以前のものごころ時空(とき)をめぐりてわれと生(あ)れにき

コンガラは人を恋ふとて億兆の時空を超えてぞ娑婆に来にける

コンガラは人恋しとて山城の瑠璃の御寺に居場所定めつ

コンガラは人里恋ひて津の国の芦屋の里に住みまぎれけり

コンガラは薬師慕ひて因陀羅(インダラ)の網のくまぐま泣いてめぐりぬ

津の国の芦屋に年を経るわれをもしコンガラと問ふ人もなし

コンガラは素性知られず明王の脇に澄まして立つてゐるなり

hiro3582.hatenablog.com/entry/2015/06/23/082353hiro3582.hatenablog.com/entry/2015/06/23 /082353 より

コンガラ童子像

2015-12-19 | 書窟

江橋崇著 『かるた』

「かるた」という言葉には奇妙な二義性がある。もともと外来語なのに、いつのまにか日本語になりきっている。「かるたを取る」といえば、百人一首のことだし、「かるたを打つ」といえばトランプのことだ。この微妙な使い分けからは、すでに日本の風土に溶け込んだカルタ文化の特質が見てとれよう。

つい最近、面白いニュースをテレビで見た。さぬきうどんのコマーシャルのために募集した「いろはがるた」の一枚にクレームが付いたというのである。「つ」の読み札に「強いコシ 色白太目 まるで妻」という川柳が入選したのはよいが、それに不穏当な語句があるという抗議の投書が舞い込んだそうなのだ。投書子のセンスについては別に論評しないが、たとえばこんなことがテレビニュースになるほど、カルタ文化は人々の生活に浸透しているわけである。

江橋崇(たかし)氏の近著『かるた』(ものと人間の文化史173 法政大学出版局)が刊行された。著者の本職は憲法学を専門とする法学者で、当然この分野の著書もある。だが同時に遊戯史学会の役員もしているし、本書と同じ文化史シリーズで『花札』も出している。マージャン関係の圖録も監修している。遊び事、勝負事も好きな法律家らしいのである。

本書には氏の深い造詣が惜しまず注ぎ込まれ、これまで蒐集した三つの資料群を支柱にしている。①状況証拠としての文献記録、②物的証拠としての実物(残存するウンスンカルタなどの品物)、③法制史的環境(かるた賭博禁令公布・花札販売の解禁など)の三つである。特に読者に有難いのは図版入りで示される豊富な「物品史料」だ。マニアには垂涎(すいぜん)の代物だろう。

さて本書の眼目は、日本のこうしたカルタ文化史の流れの中で特別な位置を占めている「百人一首」論である

日本では百人一首が、ヨーロッパの聖書、中国の四書五経、イスラム社会のコーランと並んで、「社会の共通言語の骨格」をなしたとするのが筆者の持論だ。百人一首は、近代の「標準語」が作られるよりはるか以前の時代から、教養人共通の必須知識として共有された。それが高尚な古典文化教育にとどまらなかったのは、カルタの大衆的な遊技性に媒介されたからである。

その際決定的な役割を演じたのは、百人一首が他のカード類と違って、「表配りのゲーム」だった点にある。秘匿された不完全な情報から相手の持ち札や狙いを推理する「裏配り」に対して、取り札が全部あけっぴろげに開示される「表配り」では、記憶を生かした情報処理のスピードで勝敗が競われる。著者はこの配り方の差異に「驚異的な発想の転換」を見る。そこに外来文物をみごとに咀嚼して自国の伝統に取り込んだ日本のカルタ文化の創意があるという。

総じて、この一冊をユニークなカルタ文化論に仕上げているのは、自国に「百個の詩篇を人々が共通して記憶しているという高度の文化」の伝統があることをを誇ると同時に、歴史上何度も施行されてきた禁令にもかかわらず、しぶとくカルタの諸形態を生き延びさせてきた人々の射倖性・賭博愛好性の伝承にも周到な目配りを忘れていないバランス感覚である。百人一首にも花札のように得点を計算して勝負する「むべ山」というバクチの仕法があったくらいだ。「むべ山風を嵐といふらん」という下の句の札を取った者は「役札」として銭何文かを得るといった寸法である。日本のカルタ文化史はこういったダイナミックな均衡の上にずっと成り立って来ている。後世にもぜひ持ち伝えたいものだ。

本書評は12月下旬に諸新聞に配信される『共同通信』の書評欄に書いた原稿に手を加えたものである。

2015-12-12 | 日暦

『花の忠臣蔵』が新刊されました

 

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新刊『花の忠臣蔵』が発売されました。12月14日の討ち入り記念日を当て込んでいます。この一冊で、これまで『忠臣蔵――赤穂事件・史実の肉声』・『忠臣蔵――「喧嘩」から見た日本人』・『花の忠臣蔵』と続けた忠臣蔵三部作は打ち留めとなります。

作者には、この忠臣蔵シリーズを通じて見えて来たものが一つあります。それは、日本に底流する時間のうちには、独自の波形を持った歴史のパターンがあって繰り返し表面に現れて来るのではないかということです。少なくとも、江戸元禄と平成の現代日本との間には、たんなる類似性にとどまらぬ原質的な同一事象の再現が見られます。

どちらの時代でも、人々は常に自分の意志、自分の選択、自分の責任で、自主的な行動を取っていると信じています。ところが多くの場合、人間の行為は当人の恣意や主観を越えて、知らず知らずに、客観的な条件のもとでそうせざるを得ないという拘束を受けています。どうも根源は、日本では元禄の頃から万能の力を揮い始めた貨幣にあるようです。貨幣はその所有者にもままならぬ力を持っています。元禄でも平成でも、人間社会は「貨幣の専権」に振り回されています。

『花の忠臣蔵』の世界では、赤穂事件がその当事者ばかりかその周辺に、近くから遠くまでを、上は将軍から下は庶民までを、どんなに広く深く巻き込んだかを描いたつもりです。右の眼に元禄時代、左の眼に現代を配置して、さながらステレオスコープのように浮かび出る立体的な視界から、拙老のいう反復的・回帰的な歴史のパターンを感じ当てて いただければ幸いです。

2015-12-05 | 日暦

秋山虔先生を悼む

平安文学者の秋山虔先生の訃報を知って、悲しみに暮れています。心から哀悼の意を表します。

秋山先生は文化功労者にもなられた方ですし、『源氏物語』研究の第一人者でいらっしゃいましたから、一般社会からも学会からもいろいろな追悼の言葉が寄せられると思います。後継者もお弟子さんも大勢おられます。平安文学の徒でもなく、ただ講筵(こうえん)の端に連なった程度の不肖の弟子にすぎなかった拙老の分際では多少おこがましいかもしれませんが、御生前の先生から深い薫陶(くんとう)を受けた者として一言先生の御学恩に感謝を述べたいと思います。

故あって早稲田に6年、本郷に6年――都合12年間学生生活を送り、それからすぐ神戸に職を得て定年まで居続けた、つまり一生の大部分を学生気分で過ごしてきた不肖拙老のことですから、その間ずっと定まった師というものはありませんでした。今日曲がりなりにも物を書いて暮らせるようになった下地は、おおむね独学によるものです。今でも時々そのマイナス面が出ますが、おおむねプラス面の方が多かったという自信を持っています。

それでもこれまでほんの時たま、心から「先生」とお呼びしたくなる人物にめぐり会いました。そしていうまでもなく、秋山先生こそはそんな人物の一人でした。

思い出すのは、最初の授業の日です。はにかんだようなお顔で教壇に立たれた秋山先生は、学生に向かって語りかける口調で講義を始められたのです。新鮮な驚きを感じました。今はどうか知りませんが、当時の本郷では、国文学の先生の大部分は用意して来たノートを教壇でゆっくり読み上げ、学生は必死でそれを一言一句聞き逃すまいと自分のノートに書き取るという方式が当たり前だったのです。チョー真面目な学生の中には、時折息抜きとして授業の合間にさしはさむ雑談や冗句まで忠実に書き写す人もいました。クシャミまで筆記した笑い話もあるくらいです。

そんなノート読み上げ/書き取り方式全盛の時代に、秋山先生の講義スタイルは、清新であり、魅力的でした。話が高揚してくると頬を紅潮させ、間々言葉を句切って宙に眼を凝らして、「あ、先生今考えているな」と実感させる表情からは伝説として語り伝えられる往年の美少年ぶりも仄見え、何よりも、考えて考えぬく思惟過程がそのまま言葉を生む、思考現場の実況に立ち合っているという本物の臨場感を与えてくれました。

先生の講義ノートを作るのは一仕事でした。ノート読み上げ方式と違って、先生のスタイルの場合、耳で聞いた言葉をはじから書き付けるという具合にはゆかない。耳でキャッチした内容をいったん咀嚼(そしゃく)し、自分流の言葉に言い直して文章にしなければならないのです。意図を取違えたらおしまいです。耳で聞き取ったことを記憶に留めておきながら、それを自分の文脈でノートに書いてゆく。だから聞くことと書くことの間にはいつも「時差」があります。緊張のしっ放しでした。同時に、毎回の講義はそういう種類の稀な緊張を体験できる又とない時間でした。

これが学恩でなくて何でしょう。そんな貴重な時間を与えて下さった先生にはいくら感謝してもしきれない思いです。

――最後に、深い感謝と追悼の気持を籠めて、つたないながら哀悼の歌2首を捧げることをお許し下さいますように。

きみいたむ声も涙に途切れつつ光隠れしよにまどふなり

木々の葉も紫鈍(むらさきにび)に散り敷きて踏み分けがたき秋 の山かな

2015-12-01 | 日暦

水木しげる先生をしのぶ

水木しげる先生が亡くなられました。

先生とは一回しかお目にかかったことはありません。文字通りの一期一会でした。その折、描いていただいたのが下の画です。

あつかましく、キツネ(うちの荊妻のことです)の画を描いて下さいとお願いしたら、快くさらさらとマジックペンを走らせてくれました。

30年以上も前のことです。あれは何という番組だったか、江戸文化がテーマの企画で、ゲストには他に南條範夫氏も奈良本辰也氏もいました。今はみんな故人です。でも水木さんはじめ皆さん愉快なヨーカイになって、どこかの時空ポケットにお集まりだという気がします。

2015-11-29 | 口吟

桃のエロス連作

桃のエロス連作


 

李(すもも)こそ桃のうちにはあらざらめまこと素腿は腿のうちなり

桃山に花も紅葉もなかりけり腿の奥こそ桃源の里

イザナギはヨモツシコメをはらひけりオホカムツミの桃のいのちに

老いの坂あえぎて登る谷道の行き着く果ては桃の湧き水

老いらくと人はいふらめ桃園や夢にまどひて恋ひ明かしける

かにかくに花の心のゆかしとて這いずりまはるモモケムシかな

日は暮れて道遠くともなほ往かむわれさし招く蜀の桃の実

死と胎(はら)をすべる女(ひと)とふ西王母ゆうべ悟空に桃を食はせり

2015-11-29 | 書窟

氏家幹人著 『江戸時代の罪と罰』

氏家幹人氏は独特の「世界」に読者を引き込む歴史学者である。

『江戸時代の罪と罰』というタイトルに偽りなく、もちろん本書は江戸時代260年間にわたる犯罪史・刑罰史・治罪史・法制史の基本的な輪郭をたどっているが、決してただそれだけにはとどまらない。そうした個別領域にそれぞれの形で現象する「罪と罰」の総体を底流しているある実体への研ぎ済まされた感覚の光である。

あらゆる人間は全身を経めぐる血流のどこかの部分に「悪」のDNAを蔵している。普通いつもは人知れず伏在しているその因子が、何らかの個体的・環境的・社会的な条件と結びつくと、さまざまな人間事象として発現する。「罪」はそのアクトアウトした形態であり、「罰」とはそれに対する社会的報復である。「罰」はその立場上、常に「善」の看板を掲げざるを得ないし、「罪」は「悪」と地続きだ。そしてこういっちゃナンだが、「悪」からはどこか蠱惑的な匂いがする。

氏家氏に独特の「世界」というのは、氏の特異な嗅覚が「悪」に固有する匂いを探りたどって、もろもろの歴史事象をつらぬくいわば歴史の「深層文法」を追及しているからである。特に「罪と罰」の歴史とあっては、その文脈は顕著である。

本書は、第1部「残酷時代」、第2部「将軍吉宗の改革」、第3部「冤罪」、第4部「地獄の慈悲」という4部構成をそなえている。だいたい戦国乱世の余習を残した殺伐な自力救済の社会から、8代吉宗による成文法典の編纂を経て、近代的罪刑法定主義が支配的になる法治国家に至るまでの道筋が大まかな構図として示されているのだが、この著者の持ち味は、むしろ著者自身が「他にかえがたい史料」(「あとがきにかえて」)と呼ぶ、現代では滅多に見られない稀覯書(きこうしょ)の類を博捜して読者の目に触れさせつつ、分析の対象にしている法例・判例のいくつかであろう。それはちょうど精神医学の書物を読んでいて、そこに引かれている症例が無類に面白いのと軌を一にしている。

たとえば、幕末期に江戸町奉行所与力を務め、明治の法曹界でも活躍した佐久間長敬(おさひろ)の『拷問実記』。同書によれば、奉行所では水責・火責・水牢(みずろう)・木馬(もくば)といった戦国の遺風を伝える残虐な方法は廃止し、笞打(むちうち)・石抱(いしだき)・海老責(えびぜめ)・釣責(つりぜめ)の4種類に限定したのだそうだ。何だか聞くだに恐ろしい。4種類はまた4段階でもあって、囚人の頑健さに応じて白状しなければ一段ずつエスカレートする。最後が釣責である。これにかかると「縄しだいに皮肉に食い込み、その苦痛最も堪えがたく」、たいがいの者は白状するが、たまにはそれでも頑張る奴もいる。そうすると同囚から賞讃を浴びたという。何しろ自白に証拠能力ありとされた時代だから、拷問の苦痛から逃れようと自白したら最後、即座に死刑にされてしまうのだ。頑張る囚人が英雄視されたわけもわかる。

しかし罪人に自白させるのは正義だと信じられていた時代だったから、取り調べる側は拷問を悪い事とは感じなかったし、自白強要もよくあったろう。また中には囚人が苦しむのを見て楽しむ輩(やから)もいたに違いない。「罪と罰」の歴史の根底には「悪」の深さの領域が広がっている。そしてこの深層からはおずおずとした声で、ある根源的な問いかけが聞こえて来る。

もしかしたら「悪」に敵対するのは「善」ではなく、ともすればもう一つの対抗「悪」でしかないのではないか。パリの集団テロはなるほど「悪」であるかもしれない。だがもともとそれへの報復が理由だとイスラム側が主張するシリア空爆は「善」だといえるだろうか。世界の人々は今あれよあれよという間に旧約聖書の太古に引き戻されたかの感がある。それは必ずしも、たがいに唯一の絶対善が絶対悪とせめぎあう原始宗教への復帰ではなく複数の「悪」と「善」が交錯する人類の始原状態の蘇りではないだろうか。ことによったら、われわれは新しい世界体験に踏み入る度に、その都度、「罪と罰」の想念・思念を一からやり直さなければならないのではあるまいか。

2015-11-22 | 日暦

羅生門の階段

久しぶりにかつて同僚教官だった池上洵一氏から『平安文学研究』の抜き刷りを送っていただいた。何だか昔の戦友から便りをもらったような気がしてなつかしかったのでさっそく拝読した。

『平安京の街角』と題する氏の文章は、これまでいくつも通読された公卿日記のノートをベースにしていて、相変わらずマジメな論文の骨格が備わっているのには敬服の外はない。

拙老のように何でもアマチュア主義で、エッセイ風に仕上げてしまう流儀の者はいつまでも頭が上がらない。実は拙老、何年か前に『今昔物語いまむかし』(文藝春秋)という本を刊行したことがあり、それに記したことは、氏のような篤学の大家のオメガネに掛かったらどうなるかとずっとビクビクものであった。だから、このたび氏の論考中に「羅城門の上層」という見出しのある章段があるのを緊張の思いで読んでみた。

拙老が自著の第一章「羅生門の暗がり」で話の眼目にしたのは、羅生門には「上層にのぼる階段はない」という一文であった。実物はとうの昔――すでに平安時代のうち――に焼失しているのは承知の上で、拙老も凝り性なものだから、いろいろな楼門を見て回ったのを思い出す。平安神宮、南禅寺、知恩院、万福寺。どれももちろん空振りだったが、分かったことが一つある。どこの門にも楼上に登る階段はなく、いくつかに現存する階段の建物は「山廊」という後世の建築様式である。

羅生門に階段があるという誤解は、そもそも芥川龍之介の有名な同名の短編小説に始まる。そしてこの誤解は今昔物語の人々に「近代人」を発見しようとした発想そのものと連動している。拙老はそうではなく、今昔人を昔生きたままによみがえらせることこそが、現代人が今生きていることとの「共通成分」に達する道筋だと考える。『今昔物語いまむかし』はそのつもりで書いたものだ。

それはさておき、池上氏の論考によれば、さまざまな公卿日記を通じて、二階はもとより門の「上層に登る記事にもまず出会えない」とのこと。これは決して断章取義的、恣意的な、拙老に都合のよい引用ではない。だがシアワセな性分である拙老としては、これを嬉しい掩護射撃と受け止めたいのである。

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