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桃叟だより
2015-11-29 | 書窟

氏家幹人著 『江戸時代の罪と罰』

氏家幹人氏は独特の「世界」に読者を引き込む歴史学者である。

『江戸時代の罪と罰』というタイトルに偽りなく、もちろん本書は江戸時代260年間にわたる犯罪史・刑罰史・治罪史・法制史の基本的な輪郭をたどっているが、決してただそれだけにはとどまらない。そうした個別領域にそれぞれの形で現象する「罪と罰」の総体を底流しているある実体への研ぎ済まされた感覚の光である。

あらゆる人間は全身を経めぐる血流のどこかの部分に「悪」のDNAを蔵している。普通いつもは人知れず伏在しているその因子が、何らかの個体的・環境的・社会的な条件と結びつくと、さまざまな人間事象として発現する。「罪」はそのアクトアウトした形態であり、「罰」とはそれに対する社会的報復である。「罰」はその立場上、常に「善」の看板を掲げざるを得ないし、「罪」は「悪」と地続きだ。そしてこういっちゃナンだが、「悪」からはどこか蠱惑的な匂いがする。

氏家氏に独特の「世界」というのは、氏の特異な嗅覚が「悪」に固有する匂いを探りたどって、もろもろの歴史事象をつらぬくいわば歴史の「深層文法」を追及しているからである。特に「罪と罰」の歴史とあっては、その文脈は顕著である。

本書は、第1部「残酷時代」、第2部「将軍吉宗の改革」、第3部「冤罪」、第4部「地獄の慈悲」という4部構成をそなえている。だいたい戦国乱世の余習を残した殺伐な自力救済の社会から、8代吉宗による成文法典の編纂を経て、近代的罪刑法定主義が支配的になる法治国家に至るまでの道筋が大まかな構図として示されているのだが、この著者の持ち味は、むしろ著者自身が「他にかえがたい史料」(「あとがきにかえて」)と呼ぶ、現代では滅多に見られない稀覯書(きこうしょ)の類を博捜して読者の目に触れさせつつ、分析の対象にしている法例・判例のいくつかであろう。それはちょうど精神医学の書物を読んでいて、そこに引かれている症例が無類に面白いのと軌を一にしている。

たとえば、幕末期に江戸町奉行所与力を務め、明治の法曹界でも活躍した佐久間長敬(おさひろ)の『拷問実記』。同書によれば、奉行所では水責・火責・水牢(みずろう)・木馬(もくば)といった戦国の遺風を伝える残虐な方法は廃止し、笞打(むちうち)・石抱(いしだき)・海老責(えびぜめ)・釣責(つりぜめ)の4種類に限定したのだそうだ。何だか聞くだに恐ろしい。4種類はまた4段階でもあって、囚人の頑健さに応じて白状しなければ一段ずつエスカレートする。最後が釣責である。これにかかると「縄しだいに皮肉に食い込み、その苦痛最も堪えがたく」、たいがいの者は白状するが、たまにはそれでも頑張る奴もいる。そうすると同囚から賞讃を浴びたという。何しろ自白に証拠能力ありとされた時代だから、拷問の苦痛から逃れようと自白したら最後、即座に死刑にされてしまうのだ。頑張る囚人が英雄視されたわけもわかる。

しかし罪人に自白させるのは正義だと信じられていた時代だったから、取り調べる側は拷問を悪い事とは感じなかったし、自白強要もよくあったろう。また中には囚人が苦しむのを見て楽しむ輩(やから)もいたに違いない。「罪と罰」の歴史の根底には「悪」の深さの領域が広がっている。そしてこの深層からはおずおずとした声で、ある根源的な問いかけが聞こえて来る。

もしかしたら「悪」に敵対するのは「善」ではなく、ともすればもう一つの対抗「悪」でしかないのではないか。パリの集団テロはなるほど「悪」であるかもしれない。だがもともとそれへの報復が理由だとイスラム側が主張するシリア空爆は「善」だといえるだろうか。世界の人々は今あれよあれよという間に旧約聖書の太古に引き戻されたかの感がある。それは必ずしも、たがいに唯一の絶対善が絶対悪とせめぎあう原始宗教への復帰ではなく複数の「悪」と「善」が交錯する人類の始原状態の蘇りではないだろうか。ことによったら、われわれは新しい世界体験に踏み入る度に、その都度、「罪と罰」の想念・思念を一からやり直さなければならないのではあるまいか。

2015-11-22 | 日暦

羅生門の階段

久しぶりにかつて同僚教官だった池上洵一氏から『平安文学研究』の抜き刷りを送っていただいた。何だか昔の戦友から便りをもらったような気がしてなつかしかったのでさっそく拝読した。

『平安京の街角』と題する氏の文章は、これまでいくつも通読された公卿日記のノートをベースにしていて、相変わらずマジメな論文の骨格が備わっているのには敬服の外はない。

拙老のように何でもアマチュア主義で、エッセイ風に仕上げてしまう流儀の者はいつまでも頭が上がらない。実は拙老、何年か前に『今昔物語いまむかし』(文藝春秋)という本を刊行したことがあり、それに記したことは、氏のような篤学の大家のオメガネに掛かったらどうなるかとずっとビクビクものであった。だから、このたび氏の論考中に「羅城門の上層」という見出しのある章段があるのを緊張の思いで読んでみた。

拙老が自著の第一章「羅生門の暗がり」で話の眼目にしたのは、羅生門には「上層にのぼる階段はない」という一文であった。実物はとうの昔――すでに平安時代のうち――に焼失しているのは承知の上で、拙老も凝り性なものだから、いろいろな楼門を見て回ったのを思い出す。平安神宮、南禅寺、知恩院、万福寺。どれももちろん空振りだったが、分かったことが一つある。どこの門にも楼上に登る階段はなく、いくつかに現存する階段の建物は「山廊」という後世の建築様式である。

羅生門に階段があるという誤解は、そもそも芥川龍之介の有名な同名の短編小説に始まる。そしてこの誤解は今昔物語の人々に「近代人」を発見しようとした発想そのものと連動している。拙老はそうではなく、今昔人を昔生きたままによみがえらせることこそが、現代人が今生きていることとの「共通成分」に達する道筋だと考える。『今昔物語いまむかし』はそのつもりで書いたものだ。

それはさておき、池上氏の論考によれば、さまざまな公卿日記を通じて、二階はもとより門の「上層に登る記事にもまず出会えない」とのこと。これは決して断章取義的、恣意的な、拙老に都合のよい引用ではない。だがシアワセな性分である拙老としては、これを嬉しい掩護射撃と受け止めたいのである。

2015-11-15 | 日暦

ハローインとええじゃないか

日本にもハローインの波が押し寄せるようになった。

テレビニュースでは、東京渋谷の雑沓の模様を伝えていた。大勢の若者がゾンビの恰好をして歩いていた。夜、地元関西のテレビを見たら、大阪ミナミの活況を映し出していた。何人かが威勢よく道頓堀川に飛び込んで喝采を浴びた。この前、阪神タイガースが優勝したとき以来の眺めだった。

こういう光景は初めてではない。昂奮したファンがケンタッキーフライドチキンのマスコット人形を川に投げ込んだ時の記憶もさることながら、そのさらに150年ほど前、明治維新の年にも、このあたりは「ええじゃないか」踊りの人波で溢れていた。群衆の騒乱はどちらかといえば関西の方に年季が入っているのだ。

わが国の歴史をさかのぼると、時代の違いを越えて間歇的に、同じ波形がよみがえっているのを感じる。同一シーンがリフレーンのように繰り返されている。日本史はほぼ周期的に人々が踊り狂う躁状態の波に洗われる。それはたいがい、踊りの狂躁――日常羈絆の逸脱――社会不安という一連のサイクルをたどる。

古くは天慶(てんぎょう)8年(945)のこと、京都に奇怪な噂が広まった。何か正体の知れぬ神が入京するというので、万を数える民衆が街道にひしめき、歌舞の声は附近の山を圧した。「天慶の乱」と呼ばれる平将門の乱で大いに世が乱れていた時期である。それから150年ばかり経った永長元年(1068)、「永長大田楽、えいちょうだいでんがく」と語り伝えられるほどの狂乱が都に起きた。大江匡房(おおえのまさふさ)が「一城(平安京中)の人、みな狂えるが如し」(『洛陽田楽記』)と嘆じている。何しろ公卿も武士(もののふ)も庶民もお坊さんもみんな思い思いに仮装し、好みの衣裳で街路に繰り出し、検非違使――つまり当時の警察官――までが歌舞の行列に加わったというのだから、盛況思うべしである。

東京渋谷のゾンビはまだコスプレの範囲に収まっているが、もし大江匡房が生きていたらこれも「妖異の萌す所、人力及ばず」といって眉をひそめるであろうか。

2015-11-07 | 日暦

『花の忠臣蔵』 作者口上

いつのまにか、忠臣蔵とは長いつきあいになりました。最初は『忠臣蔵  赤穂事件・史実の肉声』(一九九四・ちくま新書)、二冊目は『忠臣蔵まで  「喧嘩」から見た日本人』(二〇一三・講談社)、そして今回この『花の忠臣蔵』を読者の皆さんのお目にかけることになったような次第です。

「花の」とはまた、派手好みの、大向こう狙いの、躁状態的発揚のあげくの命名かと思われるかもしれませんが  事実、半ばはそうなのですが  、拙老の見るところでは忠臣蔵事件は元禄という一時代を飾る「花」だったのではないかという気がします。

このホームページを読んで下さる方々のうち、一九七〇年の三島由紀夫事件を知っている人はもう少数かもしれません。でも、この事件が同時代に広げた衝撃波の大きさは理解しているように思います。明治四十三年の「大逆事件」ですでに大正が始まり、大正二年の関東大震災でもう昭和が始まっていたように、三島事件は昭和の胎内に早くも平成を孕ませていたといえましょう。三島は空前の経済繁栄とそれに続く平成バブルの水面下で進行していた精神の荒廃を予感していたのです。三島の死は、拝金と長寿しか生き甲斐にできなくなっていた日本人を何かひやりとさせました。

拙老は、元禄の忠臣蔵事件はその三島事件と似たような役割を果たしたと思うのです。 元禄時代はひところ「昭和元禄」という言葉が流行したくらい、昭和の時代と共通点があります。どちらも経済的に繁栄したというだけでなく、その繁栄を享有し、謳歌することが自然にできるようになったのです。「昭和元禄」なる流行語も「高度経済成長期の天下太平、安逸」をメルクマールにして、第六十七代首相になった福田赳夫が昭和三十九年(一九六四)に言い出した言葉だそうです。元禄の井原西鶴は「何によらず銀徳にて叶わざる事」(『日本永代蔵』)はないと豪語しています。

どちらの社会も今目前にあるこの繁華が、今後いつまでも右肩上がりに、上昇しこそすれ下降したり停滞したりすることがあろうとは、夢にも考えていなかったんですね。忠臣蔵事件も三島事件もこの根拠なき楽観論、永続反映の幻想に水をさし、警告を発する不吉な予言として起きたみたいなものです。

どっちの事件もそれが起きるまでの社会が無理に眼をつぶり、故意に無視してきた影の部分を明るみに引き出しました。なるほど平成不況(バブル崩壊)は三島切腹の結果ではないし、元禄地震や富士山噴火の原因は忠臣蔵事件ではないでしょう。しかし、今も昔も民衆の集団的幻想の世界では物事が不思議な因果でつながるものなのです。

幕末の安政江戸地震に優るとも劣らない規模で江戸を壊滅させた元禄地震が、当時、怨みを呑んで切腹した赤穂義士の怨霊の祟りと信じられ、「亡魂地震」と呼ばれた事実については拙著『花の忠臣蔵』を参照されたし。

このように考えて来ると、忠臣蔵の世界はこれまで知られているよりも、もっと奥深い広がりを持っていたことがわかります。拙老の世代には浪曲・講談・大衆小説・歌舞伎・映画などを通じて血肉化し、一種の共有財産」になった物語であり、若い世代にとっては毎年テレビドラマで繰り返されるオールド・ストーリーですが、それらでおなじみの数々の名場面だけが忠臣蔵のすべてではありません。まだまだ未探索・未発掘の地下鉱脈があちこちに残っていると思われます。

今回の『花の忠臣蔵』には大勢の人間が登場します。武士ばかりでなく、学者・文人・俳人も出て来ます。儒学者荻生徂徠、国学者荷田在満、俳句の宗匠宝井其角などが次々と姿を現して嬉しい限りです。そう、忠臣蔵事件とは、いろいろな文化人が舞台に引っ張り出された文化的事件でもあったのです。

2015-10-21 | 日暦

初口上

このたび、いい年をしてホームページを開設することにしました。「電波に乗らないと世の中について行けないぞ」と勧めてくれる人もいて、それもそうかなと思いましたので、年甲斐もなくやってみようかという気持ちになったようなわけです。

ぼく(以下拙老と自称)は今年で満七十八歳になります。七十にして「古稀」といいます。『論語』では「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」といっています。八十には該当する言葉はありません。孔子様は長寿社会を想定していなかったようです。

どうやら人間八十歳に近づいたら、心の欲する通りにふるまってよい、そうしても決してルール違反になることはないというお墨付きを頂いたみたいです。老人性アナーキーのライセンスです。歌の文句でいえば、〽嬉しいなうれしいな、爺にゃ学校も試験も何にもない、です。何の束縛もないバラ色の老年が行く手に広がっています。

とは言いながら、拙老も寄る年波、なぜか皺こそあまり寄りませんが———だからかえってキモイという人もあります———年相応にいろいろな患いをしました。現在は足が立たず、ロレツがうまく回らず、左手は自由に動かず、この文章も右の中指一本でパソコンのキーを叩いている状態ですが、まだ頽齢という気がしません。まあ、そんなちょっとヘンな老童を想像して下さい。

〽年波はいづこの岸に寄るやらん

波紋はいずれどこかの岸に到着するでしょうが、拙老の場合は間違っても「彼岸」ではなく、いやになるほどの「此岸」でしょう。それも思いっきり下世話な方面になりそうです。

〽久米仙はおとつい桃の谷に落ち

桃李もの言わねど、樹下はおのずから小道をなす。これからは人だかりのする場所にできるだけ顔を出す所存です。

このホームページを『桃叟日暦』と名付けるゆえんはここにあります。平たくいえば「桃色爺さんの日ごよみ」です。人間、年を取ると老人性鬱病になるか老人性ユーフォリズム(多幸症)になるかのどちらかだそうです。どうせ傍迷惑には違いないのだが、どちらかといえば明るい方がいいと思いまして賑やかなのを選びました。灰色かバラ色か。いい年をしてバラ色というのもナンですので、桃色にさせて頂きました。御同好の士も少なくないかと存ずるような次第です。

さて、「日暦」といっても、毎日の動静を律儀に「日録」に書き綴るなんてのは性分にあいませんので、その辺はまったく融通無碍、勝手気まま、自由形競技の形式で、思いついたことを書き連ねて行こうと思います。

まさか身辺雑事をつづるほど老け込んではいませんので、当分は出版予定の本、その他の予定などで拙老いまだ健在なり、ということの広告にしたいと思います。

というのも、最近ウィキペディアに「この存命人物の記事には、出典が全くありません」といった文章をよく見かけるようになりました。読み直してみると、これはどうも「当該人物は生没不明である」ということの婉曲表現らしいのです。もしかしたら拙老などもいつのまにかこの部類になっているかもしれない。

そんなわけでこの『桃叟日暦』は、さしあたりまず拙老の「生存証明書」として発行され、「オーイ、マダ生キテイルゾ」という第一声をお披露目するものでございます。

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