[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]
今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。
トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。
そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。
ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上
「元禄」という年号には一種独特の明るいイメージがあります。現代人が過去のこの時代を考える時まず思い浮かべるのは、「元禄模様」「元禄小袖」「元禄見得」といった何かしら陽性の想念であるようす。盛り場にある飲食店の名前を考えても、割烹「元禄」、小料理「元禄」、バー「元禄」などはいかにもありそうですが、クラブ「享保」、サロン「天保」なんてのがあろうとはちょっと想像できません。景気がよくなければダメなようです。
でも、そう思うのは拙老だけのことで、もしかしたらそれにはこれからお話するような個人的な記憶が関係しているのかもしれません。
前世紀の60年代の中頃、京都は京坂三条の終点駅の真ん前に、「元禄」という名前の大きなキャバレーがありました。入ったことは一度もありません。当時、筆者はまだ学生の身分でしたから、前を通り過ぎただけです。だが、分厚いドアガラスの向こうから伝わってくるバンド音楽やさざめきの気配からは、そこに自分とはかけ離れた世界があることが漠然と感じられました。
その後数年して、このキャバレーは閉鎖されたと噂に聞きました。有名な暴力団の幹部が客席で殺されたのがきっかけだったそうです。そんなわけで店そのものは消滅したのですが、店名の「元禄」だけは不思議にずっと記憶に残った「げ、ん、ろ、く」という言葉の響きには、何か派手なもの。華やかなもの、うつろうもの、やがて滅び去るものといったどこか二律背反的な美意識の連想がついてまわります。おまけに、思い切った行動にいつも伴いがちな暴力的な血の匂いのようなものまでが加味されています。
元禄の年号が筆者に引き起こす連想の一部には、どうも昔京都の盛り場でちらりと覗いて見た奇妙に遠い世界の残像がこびり付いているような気がしてなりません。そこは重いガラス扉に距てられた禁断の園であり、疑いもなく、一介の素寒貧(すかんぴん)学生には手が出ず、及びもつかない美女と札束と官能の幻がきわどく渦巻いていました。
現代日本から想像する元禄年間(1688~1704)は、われわれに一種独特のものなつかしい親近感を覚えさせます。基底にあったのは、永久に続くと思われた経済成長、人間だれしも才覚と運さえあれば金儲けができるという信念であった。門地や生まれに関係なく成功を掴めるという明るい気分が世に満ち満ちていました。現代日本も一時はたしかにそうでした。今から60年ほど前、「昭和元禄論」というのが一世を風靡したのを思い出します。日本経済に「神武景気」が訪れ、やがて国中がバブルで沸き返る以前の時代です。
昭和が「元禄」なら、平成はさしずめ「享保」でしょう。江戸時代のすべての改革政治は例外なくデフレ基調の緊縮経済です。後期の二大改革――寛政と天保――お手本を享保に求めました。元禄の昔に帰れというスローガンが叫ばれたことは一度もありません。きっと元禄精神の根底に何か野放図で、アナーキーなものを感じるからでしょう。
最近は、昭和の出来事がセピア色に染まって蘇るそうで、つまり昭和を語ることはもう歴史小説になる時代です。それで肚を決めました。拙老がめざすのは、元禄を舞台にした現代小説を書くことです。歴史といい、現代といい、その間はただ一筋の均質な時間がつないでいるだけなのですから。

野坂昭如『男の詫び状』 (文藝春秋)
野坂昭如氏の死後出版になった『男の詫び状』は、生前親交の深かった友人知己37人との間で取り交わされた往復書簡集です。人間にはいろいろなつきあい方があるものだと感服しますが、氏は同年代・年下の世代とそれぞれのいいところを取り上げてうまく友情を育てています。それが最晩年に至ってもこれだけ豊富な人脈を持ち伝えていられた理由だと思います。
野坂氏はいったい何を「詫びる」というのでしょうか。氏自身の言葉でいえば、「今の日本は戦前の形に似ている。このままいけばまた同じあやまちの繰り返しか」「お先真っ暗の日本の姿が見えてくる。それでもぼくは語り継ぐ。義務感とか責任感というよりも、後ろめたさのあらわれであろう」(桜井順宛)と戦争を語り切れなかった昭和ヒトケタ世代の後ろめたさを述懐するということにあるようです。
この「後ろめたさ」は、なるほど、本書の主感情ではあるでしょう。しかし、ただやたらにその感情を言い立てるだけでは、一種調子のよい無限責任感と紙一重のものになってしまうのではないかと思われます。戦争の悲惨を訴えることが容易にお涙頂戴に転化しかねないことの気恥ずかしさに対して、氏が羞恥に近い気持を持っていた事情は、本コラムの先々回『七十九歳の将来』で、氏がテレビ出演中に『火垂るの墓』に見せた特別な反応から推測した通りです。あの真面目な酔っ払いぶりはなまなかの「後ろめたさ」で出来ることではありません。
現に氏は、前引した桜井順氏――作曲家、作詞家、野坂氏のCMソングをいくつも書いている――への手紙にも記しています。「桜井さんもぼくも、時代の恩恵を充分に受けてきた。その上、医療も年金も、ぼくらまでは大丈夫。くたばるまでお国が面倒をみる仕組み。」氏は、こうした「時代の恩恵」を受けながら、なお「後ろめたさ」を喋々(ちょうちょう)することの――何といおう――むしろ「居たたまれなさ」でいっぱいなのです。
往復書簡に名を連ねている37人のうち、早くも何人かが他界されました。たとえば永六輔氏の訃報は去る7月11日にもたらされたばかりですが、氏は、その故永氏を上司として音楽グループ「冗談工房」で仕事をした時のことをこう回想します。「専務としての仕事をぼくは接待と受けとめ、費用は経費と思い込み、毎月五十万円ほどを勝手に使い、これが問題となってクビ。いい加減な部下を持ったボス、永さんの悲劇。」湯水のようにカネを使ったみたいです。いつも輝いていて、世話になりっぱなしだった先輩に対する「ねたみ」が自分の起爆剤だったといえる所がさすがは野坂氏です。自己自身にも複眼を向けています。
この機会に氏の旧著から『文壇』というのを見る機会がありました。昭和36年(1961)の文壇デビューに始まり、同43年(1970)の三島由紀夫の死のニュースまでの8年間を一時代として切り取る世相史とも読めますが、やはり何といっても野坂氏を中心人物にした文壇人物誌であるからこそ面白いのです・
どうしたはずみか、拙老の名前までか同書中に出て来ます。
「(新宿駅)西口の柏木町青梅街道に面し「未來」、二階にあるこの店の窓から、墓場がみえるので、かく名づけたとかで、主な客は詩人。種村季弘、竹中労は週刊誌『女性自身』の記事を書き、野口武彦、酒は飲めない『ヒッチコック・マガジン』編集長中原弓彦も時に姿をみせ、書き下しあがったと笹沢左保。詰めて十人ほどの店に、埴谷雄高、田村隆一、篠田一士、水上勉、井上光晴などが連夜当たり前にいた。」(文春文庫p.38)
もとよりその頃も現在も、木っ端でしかない拙老の名が、どうしてまたこんな錚々(そうそう)たる顔ぶれの間に差し挟まれていたのかは謎としかいえませんが、あの店で氏の黒いサングラスの目に留まっていたのかと思うと冷や汗が出ます。こちらの方では、お目に懸かったという記憶はまったくありません。ひどい酔態でなかったことを祈るばかりです。
「未來」で思い出すのはこんなことです。まだ大学院生だった頃のある晩、仲間とテーブル席で飲んでいたわれわれは、偉い人たちが来店されたといって、たちまちマダム――やかましくツケを取り立てたので、拙老などはミミズク婆ァと呼んでいました――にカウンター席(例の墓場が見える場所)に追いやられました。新客は三人連れで、丸山真男氏と、神戸大学の猪野謙二氏と、それから誰かもう一人でした。
拙老たちは至近距離でお三方がしきりに談論風発されるのを拝聴していました。話題は第2次世界大戦前のドイツ映画のことでした。みんな熱心に『会議は踊る』の話をしていました。そのうちに丸山氏が「えーと、誰だっけ? あのメッテルニッヒをやった俳優」とおっしゃっているのが聞こえました。他の二人は咄嗟(とっさ)に思い出せないようでした。そこで拙老すかさず、「コンラット・ファイト」と側から口を出して当座の面目を施したようなわけです。
その座には猪野謙二氏も居られました。そしてどうやら、拙老がその後長く持つに至った神戸大学との縁はどうやらこの時できたようです。

アオスジアゲハの羽化
最近、町中で蝶を見かけることがめっきり少なくなりました。拙老の少年時代には至る所にモンシロチョウやモンキチョウがひらひら飛び回っていました。第2次世界大戦後の東京にはみごとに自然が復活し、一面の焼野原は武蔵野の再来を思わせるほどでしたから、雑草の茂みも、家庭菜園の一部として菜の花畑もたくさんありましたから、蝶類も自然に繁殖できる環境があったわけです。白いのや黄色いのが毎日屈託なげにそこらへんを舞っていました。ヒョウモンチョウという色も柄も地味な種類のもいて、自信なさそうに地面にはいつくばっていました。
今回掲げた写真は蛹(さなぎ)から出たばかりのアオスジアゲハです。芦屋の町では、庭先によく見かける種類にアゲハチョウ科のものが多くなりました。それも普通のキアゲハではなく――カラタチの垣根が少なくなったせいでしょう――カラスアゲハとかこのアオスジアゲハとかを目にします。大型の蝶が多いです。山や木立ちが近いからでしょうか。蝶ではありませんが、蛾の珍種であるオオミズヒキがマンションのドアに止まっているのを見たことがあります。
さて、アオスジアゲハのことですが、この蝶はアゲハチョウ科にはめずらしく、ふだん翅(はね)を閉じて止まるそうです。翅を縁取っている黒い部分は鱗粉ですが、アオスジの名の由来である前翅・後翅をぶちぬく青緑色のベルト一帯には鱗粉がなく、透き通っているとのことです。鱗粉は体毛が進化したものですから、これを発生史的に眺めれば、この蝶の翅は、まん中の大切な部分が無毛状態で、スケスケのスッポンポンでお目見えしているわけです。そういえば、この蝶から華麗な翅を剥ぎ取った後の正身は必死で生きようともがいている裸虫の姿を曝しています。蝶はつくづく全身がエロティックな生き物なのです。肉感的だとさえいえるかもしれません。
昔から日本にはたくさんいたに違いないのに、『万葉集』に「蝶」という言葉は一語も見えないそうです。意外な感じがします。また、「蝶」に該当する大和言葉も使われません。古語では「かはびらこ」といったという実例は『新撰字鏡』『今昔物語』に見つかるということですが、後世に伝わりませんでした。決定的なのは歌語にならなかったことです。『二十一代集』の歌には「蝶」という外来漢語のままで歌われます。ハイカラな趣味だったのです。一例を挙げましょう。『詞花和歌集(しかわかしゅう)』(1144成立)の一首です。
◯百(もも)とせの花に宿りて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける
作者は大江匡房(おおえのまさふさ)。当代切っての漢学者・知識人らしく、頭でこしらえた理知的な歌です。踏まえている故事は『荘子(そうじ)』「斉物論()せいぶつろん」の荘周が夢で胡蝶になったという有名な寓話です。文学語としての「蝶」は、こんな風に高尚でちょっとペダンティックな趣を帯びていました。
それにひきかえ、文学以前の民俗伝承や俗信の領域では、蝶は持ち前の肉感的でエロティックな生態から発散する幻想を広げてきました。蝶はいつも死の予感およびそれと背中合わせの繁殖への衝動に駆り立てられて瞬時瞬時を懸命に生きています。少なくとも、そういう必死の姿を連想させます。そのせいか、蝶をめぐる言い伝えにはどこか不吉な影が差すものが多いように思われます。
『虫めづる姫君』という一風変わった王朝物語があります。ヒロインは蝶を愛でるなどという月並みなことはしません。「蝶はとらふれば手にきりつきていとむつかしきものぞかし(蝶は捕まえると手に鱗粉が付いて気色悪いたらありやしない」と言って、自分では毛虫・カマキリ・カタツムリなどを愛玩する女性です。この特異な嗜好には一種屈折した淫乱さ――鱗粉の生臭さへの鋭敏な感受性は、たとえば思春期の少女が父親の下着に示す潔癖症的な嫌悪感を思い起こさせます――などは、間違いなく蝶独特の生態に連動しています。
昔は、大量の蝶の出現は兵乱の兆しと考えられました。『吾妻鏡(あずまかがみ)』の宝治元年(1247)3月の条には、黄蝶が群飛して鎌倉中に充満し、古老は平将門の乱の時もこうだったと不安がったそうです。江戸時代の延宝8年(1680)閏8月6日には、大風雨のさなかに数十万匹の黄蝶が異常発生ました、。暗君(5代将軍綱吉)が出たからだという人もいました(戸田茂睡(もすい)『御当代記』)。宝暦年間(元年は1751)、江戸両国の回向院(えこういん)には多量の蝶の死骸を埋めた蝶塚があった、と大田南畝が 書いています(『金曾木(かなそぎ)』)。この話に信憑性があるのは、弘化⒋年(1847)9月、信州でまっ白な小蝶が死んで天から降り積もり、所によっては』地面に15~18センチも堆積したという記録が残っているからです。しかも一匹がきちんと2つずつ産卵してから死んだそうです(『天言筆記』)。この変な律儀さが蝶の不気味さです。
戦後間もなく、拙老がまだ純粋無垢な学童だった時代のことです。その頃、人々の婚礼はそれぞれの生家で、家族・親戚・近所の衆が集まり、つつましく挙行されたものでした。当時の慣わしに「雄蝶・雌蝶」という役がありました。新郎新婦が飲み交わす三三九度の盃に銚子から酒を注ぐ附添です。10歳未満の少年少女が選ばれることになっていました。ちゃんと小笠原流の礼法にも定められています。その時、雌蝶を勤めた女の子――たしかアサコという名前でした ――とは、それからずっと会っていませんが、どうしているでしょうか。
今年の6月28日は拙老79歳の誕生日でした。世の中では誕生日を個人的な祝日のように扱うようですが、当人としましてはそう「めでたい」とばかりは言っていられません。先立つものはカネという言葉がありますが、この年齢になると「先立つものは時間」というのが正直なところです。「人生の残り時間」は着実に目減りしてゆくのですから、それを見越した生活設計が必要だと痛感しています。
何にしても、人間は手持ちの札で勝負するっきゃありません。預金残高ならぬ「余時間残高」で最終ゲームに臨むしかないわけです。ところが困ったことには、この残り時間ばかりはあらかじめ計算できないのです。予想することにもあまり意味があるとも思えません。まあ、ゲームは今やロスタイムたけなわであり、夢中でプレイしているうちにいつか最期のホイッスルが鳴るが、当人は気が付かない――そんな風にシアワセに終わるだろうとしごく楽観的に考えています。
若い頃は、文学の諸先達の享年を調べてそれより拙老が長生きしていたら満足でした。芥川龍之介や太宰治などの自殺組は別として――もちろん、三島由紀夫もです――夏目漱石の49,森鷗外の60はとうにクリアーしました。泉鏡花は65歳でしたから、これもいつしかスルー(和製英語ではありません)。とうとう谷崎潤一郎の79歳に肩を並べました。もっとも、拙老は80まで生き延びなければ、記録を抜いたことにはなりません。
こういう年齢になったら、人はいったいどんなことを考えるのでしょうか。うまい具合に、谷崎潤一郎が絶筆になった『七十九歳の春』という文章を書き残してくれています。「当時私自身は、必ず生きて見せるというほど力み返る気にはならなかったし、死んだら死んだで仕方がないと、半分はあきらめるようにもなっていた」と、ごく淡泊に自分の状態を受け入れていたようです。自分がどれだけ死に近づいていたかは、当の本人には案外わからないものだということもありますが、拙老は谷崎のこういう心境になんら虚飾はないと感じます。谷崎は決して嘘を語っていません。
しかし、谷﨑潤一郎よりももっともっと参考になる実例が身近にありました。2015年12月9日に物故された野坂昭如氏です。しかも氏は12年前の2003年5月26日に脳梗塞で倒れ、その後、72歳から85歳まで闘病生活を送られています。幸か不幸かご生前にお目にかかったことはありませんでしたが、拙老にとっては長いこと無関心ではいられない存在でした。野坂氏が2004年から死の直前まで綴った日記が、『絶筆』と題する単行本として刊行されています。何事にも先達はあらまほしきものと申しますから、勝手ながらこれか勉強させていただきます。
「ぼくは、日本の高齢化は一過性のものとみている。昭和ヒトケタ生まれから十歳ぐらい下までが、最期の長生きする世代じゃないか。」(2011年11月某日)
氏はこの年81歳でした。右の言葉が我田引水でない証拠にはその後85歳まで長生きされ、「老境の醍醐味」を満喫されたのです。あやかりたいものです。この予想ないしは予感には拙老も共感します。拙老ら昭和10年代生まれもやがて老熟するでしょう。けれど、「老」いるのは確実ですが、果たして「熟」するや否や。こればかりは公約できないのが悲しいところです
野坂昭如氏といえば、あれはまだ前世紀の末の頃。ある関西の民放のテレビ番組に出演していたのを見た記憶があります。『火垂るの墓』を話題にした番組でした。野坂氏は酔っ払っていました。肉身の妹の死ををモデルにした話で大ヒットしたことに自分は深い居たたまれなさを感じる、という主旨のことを話されたのですが、そんな述懐はとてもシラフで語ることはできない――そのことを感じさせる痛々しい酔態でした。
その番組にはレギュラーとしてよく顔の売れた漫才師が出演していました。女性のコンビもいました。野坂氏が何者か知らなかったのかも知れません。野坂氏がただ酒気を帯びて職場を荒らしに来たとしか見えなかったのでしょう。怒って、憎悪の光さえ目に浮かべて氏を非難し、あまっさえ氏の頭にヘルメットを被せて、みんなで紙の筒でポカポカ殴りました。野坂氏はじっと自己懲罰に耐える風情でしたが、男女の漫才師の表情には露骨な反知性主義がありありと見えました。
この時ほど強く、野坂昭如氏の孤独を感じたことはありません。孤独である限り、この作家がポピュリズムに陥ることは決してないでしょう。(野口武彦記)

一重のクチナシ
梅雨の季節です。宮川沿いの街路樹の下草にはクチナシがずらりと植え並べられていて、毎年6月になるとそこら辺が香ります。先日、荊妻の運転で西宮の漢方医に連れられて行く途中、久しぶりにあの甘ったるい芳香を嗅ぎました。クチナシといえば、ふつうまず連想するのは薫りでしょう。一重咲きも八重咲きもありますが、あまり白い6片の花びらのことは 話題になりません。花がしぼんだ後、いさぎよく散らず、いつまでも未練たらしく茎にしがみついて茶色に変わり果てても老醜を晒しているのも評判が悪い理由です。
♫今では 指輪がまわるほど、という流行歌の歌詞が町に流れていたのはいつ頃だったでしょうか。たしか「くちなしの白い花 お前のような 花だった」と続いたように思います。ですが、クチナシの花がこんな風に扱われたことは日本の伝統では非常に新しいことなのです。
クチナシの名はすでに『日本書紀』に出ているくらいだから相当古い言葉であり、普通名詞ですから歌語として扱っていいかどうかは微妙ですが、すでに『古今集』から用例が見つかります。
1006 山吹の花色ごろもぬしやたれ問へど答へず口なしにして(山吹の花のような黄金色の衣を着た人にアナタは誰?と訊ねたが、返事はなかった。それもそのはず、クチナシで染めてあるのだもの――巻第19俳諧歌、素性法師 )
1026 耳成(みみなし)の山の口なし得てしがな思ひの色の下染めにせん(耳成山に生えているクチナシが欲しい。その色(山吹色)を下染めにして吾が恋の思いの緋色をぼかしたいものだ。――巻第19俳諧歌、読人不知)
これらが両首とも「俳諧歌 」――語句に滑稽味のある和歌の一体――に分類されているのがミソなのかも知れません。つまり、どちらの歌主(うたぬし)――歌の作者――にとっても、クチナシの花の色や香りはいっさい関係なく、ただ「口無し」という言葉と地口になっていることだけが興味の対象になっているのです。ちなみにクチナシの語原説の一つは、「実が熟しても開かない」ことにあるそうです。熟れた果実はたいがい割れてぱっくり口を開くものなのに、クチナシの実は頑固に口を閉じたままなのだといいます。拙老も昔、クチナシの花を栞にしてそのまま忘れていたら、いつのまにか実が熟れてしまって、本の頁がダイダイ色になって困ったたことがあります。
どうやらクチナシは、平安時代の人々には花の色でも香りでもなく、もっぱら染料の材質としてしか受け取られていなかったようです。もしかしたら、都人たちは実物の植物を見たことがなかったのかも知れません。「山梔子色(くちなしいろ)」という色名は、濃い黄色に染め上げた襲(かさね)の色目から思い浮かべられたものです。クチナシはアカネ科の植物。根から染料ができます。ですから、『古今』『後撰(ごせん)』と続き、三代集の掉尾を飾る『拾遺集(しゅういしゅう)』――1006年頃成立――にあるこんな一首のクチナシにもだいぶ検討の余地がありそうです。
158 くちなしの色をぞ頼む女郎花(おみなえし)花にめでつと人に語るな (おまえはクチナシの色をしているから口が堅いと思うから頼みにするのだ。黄花の女郎花よ。おまえの花に惚れてしまったなどと人に言うなよ。――巻第三秋、小野宮太政大臣)
この歌に出て来る実在の植物はオミナエシだけで、クチナシは色の名でしかありません。どうやら古典和歌の伝統の流れの中では、クチナシは染め色の名と取るのが本流だったみたいです。時代をいっぺんに何世紀もすっ飛ばして、『古今集』の俳諧歌の流れを汲む江戸狂歌を眺めてみても事情は変わりません。江戸人は徹底的に唯物論、むしろ唯モノ論的な人種ですから、三十一文字の滑稽叙情詩といえる狂歌ですら、すこぶる即物的に発想します。クチナシは今や食品加工物の姿になります。
◯山吹のくちなし飯や盛らんとてお玉杓子も井出の玉川 (大田南畝『蜀山百首』、春二十首のうち)
およそ狂歌の現代語訳をするなぞはヤボの極みですが、この一首には若干の注解が必要でしょう。「くちなし飯」とは、こわ飯を赤飯のように黄色く色を付けて炊き上げたもの。現代のサフラン・ライスみたいな感じです。「山吹の」もこうした色彩感覚です。「お玉杓子」は飯を盛る道具ですが、」ここではもちろん蛙の幼生のオタマジャクシに掛けてあります。「井出の玉川」は古来の歌枕で、山吹と蛙(かつては鳴くカジカを意味していました)の名所でした。つまり狂歌作者太田蜀山人は「山吹・蛙(カジカ)・井出の玉川」という古典的な縁語の系列に「くちなし飯・オタマジャクシ」という日常の事物を加えて新しい縁語を造ったわけです。
さて、江戸も庶民の世界になりますと。狂歌の三十一文字ですら長たらしく感じられます。それに縁語だの掛け言葉だのといった七面倒くさい決まりもだんだん荷厄介になります。十七文字の俳句は手軽で扱いやすいが、さりとて季語やら去り嫌いやらいろいろの約束事が窮屈で叶わないという世論が盛んになってきて、もっと気楽に、気張らずに笑えるものが要望されまして、そのうちに雑俳というものが生まれます。おなじみ熊さん・八つぁん、それに長屋のご隠居さんの世界です。この雑俳の世界でも当然クチナシが題材になります。
くちなしや鼻から下はすぐに顎
なるほど! 言い得て妙ではありませんか。吟じたのは熊さんだったか八つぁんだったか忘れました。ご隠居さんは苦笑するばかりでしたが、内心はひどく感心していたのではないでしょうか。実に論旨明快で、五・七・五の定型に嵌まっているし、文句の付けようはないはずです。俳句の形式的定義(①定型性②季語がある)を満たしながら――「くちなし」は夏の季語です――、俳句とはちょっと違うものをこさえて見せるマゼッカエシの精神は大切にしなければなりません。
話は変わりますが、つい最近、イギリスのEU離脱が国民投票というもっともデモクラティックな手段で可決され、みんな頭を抱えています。デモクラシイの多数決原理が誰の予想も付かない結果を引き起こすこともありうる事態が事実によって証明されたわけです。デモクラシイは不確実性と無縁ではありません。いかなる政治形態とも結びつき得ます。これまで対立概念と思われていたデモクラシイとファシズムも、「デモクラ=ファシズム」という形態で結合することも不可能ではありません。
いずれにせよ、付和雷同がデモクラシイの躓きの石になるでしょう。雑俳のマゼッカエシの精神こそ、現代日本人にとっては心強い味方になってくれるのではないでしょうか。 (野口武彦記)
奇妙な夢を見た。
鎌倉時代の奈良に来ている。昨夜はたしか芳子――荊妻の名です――と奈良のホテルに泊まったはずだが、いつのまにか単独で動いていた。そこは奈良近郊の古い町で、どうやら昔は誰かの荘園だったらしかった。町の真ん中に大きな平地があり、その端に神社が建っていて、鳥居の向こうに緑の樹木の梢と社殿の切妻屋根が覗いていた。神社は高台の上に建っていて、鳥居の脇から長くて高い石段道が上に続いていた。それを登り詰めると神社の社殿を見下ろす岡の頂上に達するのだった。
岡の頂上は意外に広く、馬を調練する馬場になっていた。そこでは鎌倉時代の人々が一頭一頭を乗りこなして兵馬に仕立ててゆくのだ。これが音に聞く牧(まき)というものらしかった。馬は広がった土地のあちこちから集められてきた。人が跨がって馬場を一巡すれば、だいたいちゃんとした兵馬に養育されるのだった。
今日は、この神社で、毎年恒例の武芸競べが挙行される日だということだった。主役は子供だ。きちんと鎧兜を身に着けたいでたちで頂上の神社まで断崖を攀じ登り、先頭を争う競技である。崖に取り付く前は、郎党たちが鐙(あぶみ)から押し上げて手伝うが、いったん登り初めてからは運任せだ。もし鎧の重さで登る途中に転落しても、それは神慮だから委細構われない。子供たちをそんな苛酷なレースに送り出した後、今度は父親たちが徒歩で石段を登る。これも競争だ。先頭の男が激しくあえぎながら、やっと石段を登り切ったのが見える。
不意に視界が変わり、拙老は神社のある高台の全景を眺めていた。桃の花が盛りだった。石段のある岡の中段に桃の林があって、毎年武芸競べの季節になると馥郁(ふくいく)と開花して神社を縁取るのだった。岡の麓を歩いてみる。町外れに岩石をくり抜いて作ったローマ時代の古い教会堂が立っていた。やたらに縦に細長く、キリスト教だったら十字架のあるべき尖塔のてっぺんには、未知の不思議な字形を染め抜いた旗が掲げてあった。エトルリア文字の「N」に似ていた。
岩造りの教会堂はピンクを帯びた濃い蜜色の堅牢な岩質で底光りしていた。芳子はこの町のどこかにいる気配がしたが、どこにも姿が見えなかった。 (6月12日暁、野口武彦記)

隅田の花火(ガクアジサイ)

普通のアジサイ
アジサイの季節です。この辺では六甲のアジサイが有名ですが、芦屋の町中でも民家の庭や生垣に植えられているのをよく見かけます。花の色がさまざまに変わるところから、花言葉は「移り気」とか「冷酷」とか「変心」とかあまり芳しい連想はないようです。「花言葉」などというものはしょせん西洋産の輸入品で、日本では明治以後のものにすぎませんが、それでも昔から、わが国の文学伝統はアジサイの「色変わり」の特質に注目しています。
昔はよほど地味な花に見られていたらしく、『万葉集』にはわずか2首しか詠まれていません。そのうちの1首に大伴家持:言問わぬ木すらあじさゐ諸弟(もろと)らの練りのむらとに欺かえにけり(巻4-773)。大意は、「物を言わない木の中にもアジサイのようにいろいろ色を変えるものがある。私もあの連中の口先のうまい言葉にだまされてしまったんだよ」とでもなりましょうか。「むらと」には2説あります。一つは「腎臓」という意味。古くは人間の精神作用はこの臓器が司ると考えられていました。「練りのむらと」とは「手だれの言語技巧」といった感じでしょう。もう一つは折口信夫訳で、「むらと」を「村人」と取ります。
古代日本人が見ていた野性のアジサイは、日本原産の植物で、どうやら今日のガクアジサイに近い種類だったようです(朝日百科『世界の植物』)。ガクアジサイの「ガク」は漢字を当てれば「額」で、内側に咲く細小な花叢(完全花・有性花)を外側から額縁のように囲む装飾花(不完全花・中性花)を指していいます。この装飾花は、ややこしいことに、花弁ではなく萼(がく)なのだそうです。巻頭の写真はガクアジサイの新品種「隅田の花火」ですが、変わり咲きに改良されて、ふつう4弁の装飾花が12弁になっています。もう一枚の青いアジサイの大きな花の玉の写真では、装飾花がみな4弁です。このいわば普通のアジサイは、かつて一度中国経由で西洋に渡り、改良して装飾花を成長させたセイヨウアジサイが逆輸入されて園芸種になったものです。
亜種・品種はたくさんありますが、アジサイ属の学名はHydrangea(ヒドランゲア)といいます。「水の容器」という意味だそうです。学名といえば。江戸時代の末近い頃、長崎の出島に滞在したドイツの医師・博物学者のシーボルトがアジサイにHydragea Otaksa Sieb. et Zucc. という学名を付けたことがあります。このうち「Sieb. et Zucc.」の部分は命名者シーボルトと協力者某の略号とすぐ分かるのですが、残るOtaksa」が何を意味するのか謎でした。これが実はシーボルトの愛妾(日本人妻)の名「お滝」――もと丸山遊郭の遊女其扇(そのぎ)――から取ったものだ、けしからんとすっぱ抜いたのは明治の大植物学者、牧野富太郎(まきのとみたろう)でした。けっきょくの学名は、以前にリンネによって命名されたものにプライオリティがあるというので取り消されたということです。
江戸時代に長崎の出島を拠点に活動した3人の外国人:ケンペル、ツンベルグ、シーボルトを「出島の3学者」と称します。ケンペルは「鎖国論」の筆者として、ツンベルグは「分類学の父」といわれるリンネの弟子だった植物学者、シーボルトは「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開いて多くの蘭学者・蘭方医を育てた(また国外退去にされた後、ヨーロッパで生まれた息子――お滝の子ではない――はイギリスの通訳官になり、幕末日本で活躍)などの業績でそれぞれ有名です。そしてこの3人に共通している特質は三人ともそろって博物学者だったということです。博物学というのは、自然界を形成する動物・植物・鉱物の諸事象・諸事実を蒐集し分類する学問です。大航海の時代以来、これまで未知だった世界の見聞が広まり、新しい知識体系への興味が高まった世紀の産物です。また、この時期は世界貿易の発展期でもあり、新事物への関心が新商品開発の研究にもつながっていたことは、この3人がいずれもオランダ商館(オランダ東インド会社の日本支社)の関係者だった事実からも推察できましょう。3人の身分はケンペル(医員)、ツンベルグ(船医)、シーボルト(医員)でした。全員みなオランダ東インド会社に雇用されていたのです。
話は突然、拙老のことに及びます。拙老は恥ずかしながら小学校から中学校までは人様から理科系だと思われ、なかんずく分類学のエキスパートでした。育ったのも戦後の焼跡で、当時の東京にはまちがいなく昔の武蔵野の自然が蘇っていました。目の向かう所どこにも新奇な草や木の花が咲き、昆虫がすいすい飛び回っていました。モンシロチョウやモンキチョウ、シオカラトンボ、ムギワラトンボ、時にはオニヤンマなどが日常の友でした。
チョウチョは節足動物門昆虫綱(こう)鱗翅目(りんしもく)に属するムシであり、トンボは同門同綱透翅目(とうしもく)に属します。用語は古めかしかったが、万物ことごとく整然たる分類学的世界秩序の中におさまって安定し、拙老はけっこう幸便に生きていました。調子がおかしくなったのは、学校教育にこの世界秩序が通用しなくなってからです。都立高校に進学して、一年生で「生物」を履修しました。ところが得意科目だったはずの「生物」の授業では分類学など教えませんでした。その代わり、PH(ペーハー)などという得体の知れない概念を教えられ、成績はたちまち急降下しました。それ以来、拙老の興味は、博物学をもっぱら擬人化して理解する方角に進みました。たとえば、花々は女体に転生します。
♀ あじさいの白き花玉かしぎゐぬ持ち重りする人妻の乳

中沢新一氏の『熊楠の星の時間』は、氏が長年研究している大学者南方熊楠(みなかたくまぐす)についての近年の講演類を集めた論集です。熊楠が明治の生んだ途方もないスケールの大学者であり、生前は「歩く百科辞典」と呼ばれた記憶力抜群の博識家だったこというまでもありません。しかし、これまでほとんど「死後の門弟」という感じで熊楠に私淑して来られた中沢氏が熊楠から受け継ぎ、さらに発展させようとしているのは、特に宗教思想家としての側面です。なかんずく、氏が「南方マンダラ」と命名した学問の方法論の探求です。
「マンダラ」とは本来仏語(ぶつご)で、如来、諸菩薩の悟りの境地を幾何学的な配置で象徴した画図のことですが、熊楠は密教マンダラに独特の解釈を加え(もっと正確には、中沢氏が熊楠はそう解読したと措定し)、心界(人間の精神作用)と物界(物質的時空)とを同時に全体として把握する特異な直観像を提出しています。この創念は、熊楠自身が「曼荼羅(まんだら)ほど複雑なものなきを簡単にはいいがたし」としている上に、中沢氏による解説は、「エクリチュール」「オートポイエーシス」「ポリフォニー」など最新流行の輸入理論用語を多用しているのですこぶる難解をきわめます。こんなにムズカシくていいのかという気持もあり、どこまでやれるかわかりませんが、今回この書評欄では、できるだけこの近作に食いついてみようと思います。
1世代を30年と見るのが相場ですが、その数え方でゆけば今かららだいたい2世代前の1950年代後半――ほぼ60年安保闘争の前夜です――、当時の思想界スズメ・言論界の廊下トンビというような輩の間では、「3大難解語」という見立てが流行りました。吉本隆明の「大衆」、橋川文三の「体験」、谷川雁(がん)の「原点」の3つです。どれもご当人たちは必死に取り組まれ、周囲の俗人たちを大いに閉口させたのですが、そこはそれ難解さの不思議な魅力も手伝ってなぜか一世を風靡したものです。今にして思えば、この3人はそれぞれの個人的な関心事にのめりこんでいたように見えながら、実は、「知識人と大衆」という時代の大きな問題、永遠に新しいが、時折周期的に――たとえば火星の大接近のように――身近でクローズアップされる論点を考え詰めていたのです。折から60年安保闘争は そういう季節に当たっていました。ポスト安保の状況を先取りしていたともいえます。結局のところ、3人は知識人が思想だのイデオロギーだので勝手に熱くなって空転するのを、冷然と見殺しにして健康に生き延びる大衆の生命力の謎を解こうとしていたのだと思います。
それからまる1世代を距てて、日本には新たな「3大難解語」が出現しました。柄谷行人氏の「外部」、浅田彰氏の「スキゾ・パラノ」、中沢新一氏の「マンダラ」の三幅対とでもまとめられるでしょうか。この御三家は、現代日本の知的状況を最新の西欧思想理論を武器にして切断する「外」からの視点を導入したという業績で共通しています。3人とも外国語が早く分かることにも共通点がありましょう。またこの3人には思想史的同世代者として、いわば課題曲のように、否応なく直面せざるを得なかった状況があります。20世紀末の日本には、第2次世界大戦後しばらく人々の意識に浮かばなかったメタフィジック(形而上的)なものへの関心が蘇りました。宗教への志向の復活ともいえます。起きている現象は2方向に分かれていて、一見すると複雑です。一方では、統一教会・幸福の科学・オーム真理教などの新興宗教が世間を騒がせ、他方では極端なマイホーム志向・老化防止療法の流行・家族アルバムへの執着といった俗物主義・刹那主義の解禁が二つながら進行している事態が現状です
他の二人と違って中沢新一氏は、たんに西欧思想だけにとどまらず、「東洋人の思想の原型」に軸足を伸ばしています。1980年代の初め頃、チベットの僧院へ入って実地の仏教修行をした――臨死体験も含むらしい――というのも強みです。氏の南方熊楠への接近はこのチベット密教研究に触発された面が大きいと思いますが、氏の広汎な仕事のうち、直接南方熊楠を対象とした著作は、①『森のバロック』、せりか書房、1992;②『同』、講談社学芸文庫、2006――一部改編;③『熊楠の星の時間』、講談社選書メチエ、2016 の3冊です。氏は①で熊楠が「生涯に強くひかれたもののリスト」として、「粘菌、隠花植物、神話的思考、野蛮や風習や土俗、霊魂と幽霊、宗教の比較、真言密教、セクソロジー、猥談、男色、ふたなり(半陰陽)」などを列挙しています(②では削除)が、③では、それらのレパートリーのうち、粘菌と珊瑚礁(さんごしょう)の生態・自然環境としての神社の森の保護・「アブノーマル(精神変態・異常能力)」な人間の振舞い等、熊楠学にあっては相互に関連する諸問題をトピックとして、それらと同一の構造をそなえたとされる「華厳(けごん)モデル」の実在を語っています。「華厳」とはもともと仏教の1宗派の名称ですが、熊楠=中沢はこれを大乗経典の『華厳経』に体系化されている壮大な世界観という意味で用いています。
粘菌は、微生物を食べる動物的性質を持ちながら、胞子によって繁殖するといった植物的性質を併せ持つ生物と定義されます。こんな奇妙な生態を持つ生命体が存在することは、熊楠によれば、「動物であり、かつ、植物である」ものが現に実在しているのだから、これは現代社会全般に承認されている古典的な論理の3法則(自同律・矛盾律・排中律)のうち、自・矛はもとより、排中律(AはBであるか非Bであるかのどちらかである)をさえ逸脱している事物が実在していることの歷(れっき)とした証しに他なりません。動物と植物のどちらともいえないものが現存しているわけですから。通常の論理の枠を拡張した思考論理が要請されます。中沢氏はこれを切り拓いたのが「華厳」の世界だとしています。ついでながら「半陰陽」もまた性別の分類を超えた実在です。
海の自然の森である珊瑚礁もまた無数の動植物および鉱物――サンゴという軟体動物、それに付着する光合成を行う海藻、サンゴのポリプから分泌される石灰質(鉱物)――が、生きているのも死んだのも共存している環境です。同様の論理で、熊楠自身が持っていた「アブノーマル(精神変態・異常能力)」さも境界を越え出ていることの証明です。
だいたい以上が中沢氏のいう「南方マンダラ」の大概です。たいへん複雑で難解ですが、それには大きくいって理由が二つあると考えられます。
第一は、南方熊楠の仕事そのものがあまりにも独創的で一般の思想界から孤立していたこと。それは明治の欧化主義の社会で、同時代の西欧理論によるサンスクリット文献学をたっぷり吸収した上で日本の仏学(ぶつがく)主流に背を向け、真言宗の曼荼羅教説を独自に読み破り、それを出発点として「未知の学問」をめざすものであったのです。が、世間一般の常套的思考方法――氏はそれを貫く「科学的因果関係」の原形を「ロゴスの3法則」と一般化する――を脱出するための地道な作業はこれまで充分になされてきたとは言い難いのです。中沢氏は誰も「熊楠のように 華厳を一飲みに」はできなかったとうまいことを言っています。
第二は、中沢新一氏自身の問題であると思われる事柄です、氏の文章を見ましょう。①「この経典(『華厳経』)の一番の特質ははじめて「法界」の内部構造とそこで起こっている活動の運動学を、明確なレンマ的論理で表現してみせたところにあります」(第1章「熊楠の華厳))②「南方熊楠のおこなった創造の秘密を知るために、無意識の原初過程を組み込んだ新しいサイエンスが必要です。ここからはジョイスともラカンとも別れて、私たちはシントムという鍵だけを携えて独自の道へと踏み込んで行かなくてはなりません」(第3章「南方熊楠のシントム」)③「言語の線形性をもってしては、水が指の間からこぼれていくように、豊かな情報の大半が表現から消えてしまいます。可換性もほとんどの場合できません。非可換性と非線形性が細部にまでゆきわたった空間ですから、華厳モデルの数学化はまだ相当な時間がかかりそうです」(第5章「海辺の森のバロック」)。
まず①では、「レンマ的論理」という用語が使われています。「レンマ」は「ロゴス」と対立し、発声する時間的順序に制約されぬ直観的な把握を意味するらしいが、この概念を理解するには多少とも古代ギリシャ哲学の知識を前提としています。読者にそこまで要求できるのでしょうか ②では、「シントム」なる語を用いていますが、これはフランスの精神分析学者ラカンがイギリスの作家ジェームス・ジョイスを分析した時に「精神病の徴候」シンプトムをちょっとひねり、芸術的創造と結び付けてこしらえた造語だそうです。これは専門知識の範囲を超えてオタク的知見に属します。③の「線形性」「可換性」などは高等数学の術語です。――氏の著作を読むにはこの程度の知識が不可欠だということなのでしょうか。用語法がどこか生煮えなので、初歩的な読者には多少鬼面人を驚かす気味合いがなくはないでしょうか。
「南方マンダラ」ではまだ言語化されない〈潜在性の状態〉と〈現実化した状態〉とがたがいにつながっているとする氏の世界理解の根本は、量子物理学者デイヴィッド・ボームが晩年に到達したホーリズム(システムは全体を部分や要素に還元できないとする立場)の世界観にも通じています。ボームはいいます:生なき物質とは生命が際立って顕現していないような、相対的に自律した亞総体と見られるべきなのである。すなわち生なき物質とは、全体からの二次的、派生的かつ特殊的な抽象である(『全体性と内蔵秩序』)。つまり中沢氏は、熊楠のいう「心界」「物界」を陰伏する生命の潜在的状態と生命の顕在する領域とに二分する世界観に引き付けて理解している、と見てよいでしょう。けっきょく現代自然科学の言葉に翻訳できる分だけ、熊楠学が先駆的だったということなのでしょうか。(野口武彦評)
このところ世の中は舛添東京都知事の金銭スキャンダルの報道で持ちきりです。折から伊勢志摩のサミット会議、来日したオバマ米国大統領の広島訪問と重大ニュースはいろいろあるはずなのですが、なぜか人々の面白がり方ではこちらの方が押しています。次々と、新たな「不祥事」が発覚するたびに、皆さん明らかに楽しんでおいでのように拝見されます。
この「面白がる」という反応にこそ、一つの《社会現象性》が見て取れるのではないでしょうか。
「人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、一般に、有名人の没落やエリートの失敗ほど民衆を喜ばせる話題はありません。拙老などもその最たる者で、昔一時アメリカにいた時分、いつも東大の英文科の先生に「オマエの英語の発音じゃとても通じないよ」と言われてシュンとしていたのを思い出します。しかしある時レストランでくだんの先生がスパゲッティを注文したら紅茶(ティー)を持って来られて目を白黒されたのを見た日は一日中シアワセでした。
東京都知事のポストは最近どうやらケチが付きっきりのようです。猪瀬前知事の突然の辞任は金銭疑惑がらみだったし、今回の騒ぎもまだ結末は分かりませんが、似たような匂いがします。問題は、この種のスキャンダルが、①なぜ東京の首長というポストに、②猪瀬・舛添といったインテリ文化人に集中して起きたかということです。大坂はちょっと微妙ですが、東京都の知事があまたある道府県の首長と違うのは、行政権限や財政規模の大きさは別として、選出に当たって都市知識人の世論が大きく反映することにあると思います。たんに目先の経済利害だけにこだわらない思考ができる人口部分です。
この人口部分は、おおむねいわゆる中間階層に属します。有名なピケティ理論による世界普遍的な公式――「r>ɡ」(株や不動産など資産の収益率は経済成長率を上廻る)という不等式――をあてはめれば、いつも全社会的な富が偏在すること(永久に不等式の右辺にいなくちゃならない)のワリを喰わされていながら、自分たちは最下層ではないと思っていられる階層です。昇給の機会を窺い、失業の脅威にあたふたする流動常なき人口部分です。この階層から政治家が出るとしたら、ウエーバーのいう「職業政治の二種類」のうち第二の「政治に《よって》生活するタイプ」に属することになりましょう。
ここから、猪瀬・舛添御両人に共通する一連の悲喜劇が生じます。猪瀬さんはかつて信州大学の全共闘議長でした。それなりの理想に燃えてらしたと思います。それともこの時代、氏が身に付けたのは駆け引きと人心統合術だけだったのでしょうか。舛添さんは最高学府で成績はいつも上、それ以来ずっとエリートコースをたどって来られました。そして二人とも《職業政治家》の道を選ばれました。衆目が集まるのも当然です。
ところで、政治家の世界には、これまた世界普遍的な公式があります。さきほどのピケティの不等式のひそみに倣うなら、「公>私」とでも表記できましょう。オオヤケをいつもワタクシに優先しなくてはならないのです。そういうものなのです。今度のことでも、「公私混同」が取り沙汰されているのも偶然ではありません。「わしゃ断乎として公益より私利を追及する」と公約した政治家を聞いたことはありません。正直かもしれませんが、当選する見込はありません。政治はそういうタテマエになっていないのです。
古語に「公は私に背く(『韓非子』)」という言葉があります。「公」は「八」と「ム」の会意。ムは「私」の古字、一説に「八」は「背」の古形。 八を左右に背く形と解するのだそうです。どうも昔から、公と私は折り合いが悪かったみたいです。むしろ利害背反的だったのかも。本当は「公<私」なのだがタテマエ上「公>私」ということにしておくのでしょうけれど。
わが国の現行政治制度はデモクラシーということになっています。タテマエとしては、身分・階級・性別・年齢・財産の差異に関係なく、政治家になれることになっています。しかし現実には決してタテマエ通りにはいきません。誰にでも生活時間を全部政治にふり向ける余裕があるとは限らないからです。政治家にもどうしたって格差ができます。その事実に目をつぶって、政治家は「公>私」の看板を掲げますし、被治者の民衆もそれを期待します。
それだから余計、民衆が失望した時の反応は辛辣(しんらつ)なのです。19世紀フランスの政治思想家トクヴィルはこんなことを言っています:「偶然によって権力の地位に上がった者の腐敗にはなにかしら粗野で下卑たところがあり、そのために一般大衆もまたその腐敗に染まってしまう」「公金を横領したり、国家の恩典を金で売ることならば、極貧の民でもよく分かり、次は自分の番だと期待することができる。(『アメリカのデモクラシー』、松本令二訳)」。21世紀の日本のこととして、東京都知事の公私混淆が人々の笑い物になっているのは日本のデモクラシーがまだ健康である証拠とはいえないでしょうか。少なくとも皆がわれもわれもと「次は自分の番だ」と期待してはいないようですから。(野口武彦記)
このところ連日、舛添東京都知事を俎上(そじょう)に乗せるニュースがテレビの画面を賑わせています。殊に、拙老が見ているのは関西のテレビ局製作の番組ですから、製作者も視聴者も「東京憎し」のアンダートーンで盛り上がり、舛添さんが苦しい答弁を繰り返すたびに大いにはしゃいでいるように見受けられます。
拙老はかねてから世は末造(まつぞう)の時代と達観していますから、東京も大坂も眼中にありません。日本中どこででも、中央でも地方でも、現在「政治家」と呼ばれる人々、そう称する人々にとっての共通の問題を取り上げようと思います。
末造期を生きる政治家とはどういう人々なのでしょうか。「末造」という言葉はあまりなじみはないでしょうが、元は『礼記(らいき)』に「諸侯の冠礼あるは夏(か)の末造なり(諸侯が元服で冠を付けるようになったのは、夏王朝の末期からである)」とある典拠から出た言葉で、王朝末期ということです。これを今は「政体末期」というぐらいの意味で使っています。政権末期よりは一つ大きい単位です。「終末期」というと変にユダヤ=キリスト教臭いし、「末法時代」というと佛教臭いし、「末日」というとモルモン教か エホバ教臭いので、まったくニュートラルに「末造期」という無味無臭の言葉を選びます。
政治家といえば、マックス・ウエーバーの古典的な名著に『職業としての政治』というのがあります。原題は Politik als Beruf です。今更めいて気が引ける次第ですが、このBeuf なる語はberufen(英語ではcall)の名詞形であり、原義にはrufen「呼ぶ」「呼び寄せる」「召す」などの語意が生きていて。「任命」「使命」「呼集」といった訳語があてられます。中でもいちばんよく知られているのは、「召命」というキリスト教用語でしょう。信徒になるべく、神が人間個人に呼びかけるという意味です。この語義がつねに基層にありますから、ウエーバーの著書もせめて『使命としての政治』とでも訳しておけばよかったのです。それを『職業としての…』とやったものだから、後の混乱が始まったというわけです。もちろん Beruf には「天職」という訳語もあり、「天が与えた職」という考えを仲介にして「職業」という語義が派生します。不幸なことにこっちの方が世に流布してしまったのですね。
ヘボンの『和英語林集成』は慶応3年(1867)に初版を発行し、その後、続々と見出し語を35618語に増やし、明治日本も基本的語彙を収めた三版は明治19年(1866)に刊行されました。「職業」という日本語に対応する英語の名詞には、business,avocation,occupation,pursuit,employment,work,duty,tradeと、都合8語が列挙されています。ドイツ語の(というよりウエーバーの)Beruf と英語の(ヘボンの)business とではだいぶ違います。Avocation(副業)はまさか vocation(天職)の誤りではないと思われますから、そうすればよけいに、明治の「職業」は宗教性を脱色していることになります。Business はなるほど天から与えられた使命(天職)ではありませんが、人と人の間の契約に基づくものなのです。
一方、「職」という漢字にも長い歴史があります。原義には「しるし」という意味の底層があり、耳扁(へん)がついているのは、白川静(しらかわしずか)説では、昔、戦功の証拠に敵の左耳を切ってしるしにしたからだそうです。「しるしのある物」から「唯一の」「占有の」「ひたすら」「もっぱら」等の語義が派生しました。荻生徂徠もある仕事に専念することを「職として」事にあたると表現しています。徂徠学には「天命」の概念がすでにありましたから、幕末・明治の漢学的知識人たちは Beruf といった言葉に出会っても別に驚かなかったのです。
しかし、21世紀の日本での「職業としての政治」は、横文字でいうならさしずめ Politics as job とでも表現するのが適当なように思われます。いっそ「商売としての政治」といった方がすっきりするかもしれません。「商売としての」という言い方ががドギツイならば「生計のための政治」としてもよいです。じつはウエーバー自身もすでに同書中の「職業政治の二種類」という段落で、職業政治家を①政治の「ために」生活するタイプ、②政治に「よって」生活するタイプの二つに分類しています。つまり、国家および市町村の議員、知事・市町村長、閣僚ならびに高級官僚などの俸給生活者のおおむねがこの②のグループに所属すると見てよいでしょう。シビリアン・コントロールが優勢な現代では特に、選挙で選ばれた政治家が行政府の「役人」を動かすシステムが出来上がっていますから、政治家商売も大繁盛のようです。
昨年、公金を私的な旅行に注ぎ込んだのを県議会で追及されて、「せっかく県会議員になれたのにイ」と号泣してすっかり有名になった野々村さんという人物がいました。今度の舛添さんのケースも、「せっかく東京都知事になれたのに」という点でまさに同格と申せましょう。でも、高校生の時は模擬大学入試で毎年全国2,3位を争い、大学ではつねに優等生であり、東大教授をやめて政界入りをしたようなヒトは、普通こんなことは言わないものです。そういうヒトが政治の大道を歩むところにこそ、現代の「末造期」たるゆえんがあるのでしょう。ウエーバーも言ってます:「彼(職業政治家)の収入は、彼が常に彼の労働力と彼の思考力とを、完全に、またははるかに圧倒的に、彼の収入を獲得する勤務におくということに依存してはいけないということであります」(西島芳二訳)と。よく分からない訳文ですが、要するに、政治家は自分の給料だけじゃやっちゃいけまいということらしいです。 (野口武彦)