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桃叟だより

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2016-09-03 | 日暦

サルスベリ慕情

サルスベリサルスベリの花を見るたびに夏の連日の陽射しを思い出します。それも昭和20年(1945)の戦争最中の真夏です。もしかしたら、枝から一斉に紅桃色の炎か噴き上げるように花群を咲き開かせるサルスベリの形状と、同年の東京大空襲の時、くっきり眼に焼き付いた米軍の焼夷弾の炎の色とが一つの心象風景の中で融合しているせいかもしれません。はるか後年、メキシコで街路樹のカエンジュ初めてを見た時、「この花は昔見たことがある」という錯覚に襲われたことがあります。

それらの日々、小学校――もとへ! 国民学校であります――の一年生だった拙老は山梨県甲府へ疎開していました。それも昭和20年4月13日の城北大空襲で淀橋区(現新宿区)柏木の家を焼き払われた後、急遽、甲府の親戚の家へ転がり込むという間抜けな疎開でした。甲府上空は、東京をめざすB29の編隊がすぐ南に聳える富士山を目印に飛来し、東旋回して方角を転じる飛行ルートだったにも拘わらず、人々はすこぶる呑気(のんき)で「かつて武田信玄を守った自然の山岳地形が敵機爆撃に対する強い味方だ」(山梨日日新聞)といって悠然と構えていたそうです。しかし甲府の町は同年7月6日の深夜、絨毯爆撃を食らって炎上しました。

拙老一家は甲府空襲の直前に東京へ帰っていたので、その様子は知りません。甲府は盆地の町です。そこへ絨毯爆撃ですから人々は逃げ場を失い、火災によるフェーン現象も起きて現場はかなりの惨状だったようです。後になって苦労話をいろいろ聞かされましたが、そうなる以前の、甲府がまだ空襲を知らなかった時分には、拙老は何しろまだ数え年9歳の、東京で空襲の炎火をくぐり抜けてきた少年でしたから、珍しがられ、周囲から何となく畏敬の眼差しを注がれていました。一種「語り部」的な少年だったのです。『戦災の思ひ出』という作文を書いて先生にも褒められました。

サルスベリ2

疎開先の家には小さな庭があり、その片隅にサルスベリの木が植わっていました。花が咲くまで拙老は何という木か知りませんでした。初めは、何だか幹のツルツルした妙な木が生えていて、それが盛夏になったら急に花を付けて存在感を主張しはじめたのが目に留まったのです。ピンクの炎がにわかに燃え立ったような花の梢の下に一人の女性がしゃがんでいたのが印象的でした。その情景はそれから70年経った今でも鮮明に記憶に残っています。

その女性は何をしていたのでしょうか。一人で泣いているのを見たような気がします。でも当時9歳だった拙老には、それは覗いて見ることを許されない、遠い世界の出来事のようでした。その甲府の家は、郊外に持っている広い土地で牧畜をやっているとかの旧家で、町中の家にも使用人が何人かいました。その女性もそうした使用人の一人でした。因習的な当家の主(あるじ)との間に、いろいろ男女のことなどがあったのかも知れません。その頃の拙老は、何しろ天使のように純潔でしたから、その辺の事情とはまったく風馬牛だったのです。ほんとです。

拙老の記憶はその情景でふと途切れてしまい、そこで記録映画のフィルムがふっつりと中断したように、それから先はありません。その女性は程なく実家へ帰って、空襲で死んだと戦後になってから聞きました。

戦後の東京は見渡す限り焼野が原でしたが、植物の中でも強靱なものはしぶとく生き残りました。サルスベリもその種類だったのでしょう。戦後の東京に訪れた猛暑の夏、炎天と瓦礫にむしろお似合いの風情で一緒懸命咲いて見せている花があり、あれがサルスベリだと人に教えられたのが、この花の名をきちんと覚えた最初だったと思います。つまり、この花に関する知識はいくつかの段階で拙老の頭に入ったわけです。最初はいやに官能的な幹の形と肌の色で、二度目は鮮やかな紅色の色調で、三度目に、形と色が女人のイメージに複合して。

サルスベリは、その花と樹形の全姿から、いつでも独特な波長のエロティシズムの磁波を発散しています。(了)

 

2016-08-27 | 書窟

スティーヴン・キング著 『ジョイランド』

ジョイランドというのは遊園地のことです。21世紀の遊園地はテーマパークなどと呼ばれ、やたらに規模が大きく、スペクタキュラーで、設備にもテクノロジーを駆使した豪華なものばかりが目立ちますが、作中に出て来るサウス・カロライナのジョイランドは、語り手にして主人公デヴィンがいうように、「ディズニーワールドの足もとにもおよばないがそれなりに目立つ広さ」があるくあいの、こぢんまりした適正スケールの、まだどこか牧歌的なところが残ったものなつかしい場所です。ここが一つの青春精神劇の舞台になります。

もっときちんといえば、その遊園地のアミューズメント施設の一つである「幽霊屋敷」で事件は起きます。日本にもよくある「お化け屋敷」みたいなものでしょう。仕掛けだったと思っていた幽霊が本物だったのです。

時は1973年。同じキングが『アトランティスのこころ』で描いたように大学キャンパスで反ヴェトナム戦争運動の波がうねり、また、アメリカン・ドリームが破れて人々が多元的な価値観に分裂して、思い思いの目標を追求し始めていた時代です。ですが、主人公はそうした大問題には関わりを持たず、むしろ平凡に、アルバイトをして学費を稼いだり、手頃な女子学生と恋愛・失恋をしたりと、まあごく普通の学生生活を送ります。この「普通さ」の中に、主人公が目撃し、かつ解決するホラーじみた殺人事件が起こるのです。物語は、40年後の回想という形でなされます。

この小説は一応ミステリーですから、書評にもルールが適用されます。犯人が誰であるかを言ってはならないのです。その点に留意して話題から外し、ここではちょっと意想外かもしれませんが、キングのホラー小説から透けて見える無意識の宗教観いついて考えてみようと思います。

 

何かのエッセイで、キングがぽつんと洩らした言葉があります:自分が書くホラー物の根源には、どうも、幼少年時に教会や家庭で無意識に刷り込まれた悪人が死後行く地獄の恐怖がひそんでいるようだ、と。この「教会」が、どんな宗派、どんな教団に属しているかは、拙老が忘れたのか、そもそもキングが言及していないのか判然としませんが、まあありきたりのメソジスト監督派とか福音派とかだったような気がします。つまり、その下地は意外に「常識的」だったようなのです。そういえば、題は忘れましたが、SF系の作品群には、作中人物が気に入らない奴を超能力で宇宙の外に追放する話がいくつか出て来ました。この宇宙の外というイメージは、そこに光も音も時間もないただの空無の広がりがあるという《絶対外部》の直覚像になっています。その辺地へたったひとりで放り出されるのですから、その徹底性においてこれは地獄の原層です。

また近作『アンダー・ザ・ドーム』では、人間が蟻をレンズで集めた光で焼き殺すように、人類をほしいままに生殺与奪して別に残酷とも感じない超知能を持った高度の宇宙知性体が想像されています。これなども子供の頃さんざん聞かされた神の全知全能がいかにもSF的に造型されているといえます。

しかし幸いにキングの宗教的下地は現在世界中で――もちろんアメリカでも――抬頭しているファンダメンタリズム(原理主義)とは無縁なようです。最近,アメリカの「聖書根本主義派」のうち、「天啓的史観」を標榜(ひょうぼう)するグループの間では「キリストの再臨は世界核戦争というハルマゲドンを経てこそ実現する」という信念が強固に形成されていると言います。同じ主張をしているわけではありませんが、トランプさんなどの言動を思い合わせるとちょっぴり心配になります。

話を『ジョイランド』に戻しましょう。作中には、主人公デヴィンを失恋の痛手を癒やし、命を助け、性的救済まで施して主人公を青春彷徨から抜け出させるアニーという年上の女が登場します。この女性の暴君的な父親が、ゴリゴリの原理主義者のテレビ説教師に設定されていることに、拙老はキングという作家が現今の宗教問題に対して取っている絶妙なスタンスを感じます。「悪魔だって聖書を引用できますから」という作中主人公の言葉には、作者キングならではのアイロニーが篭められていると感じます。(了)

 

2016-08-20 | 日暦

狸のカツレツ

これも昔の夢です。昭和45年(1970)6月のある夜のことでした。神戸市青谷の下宿で、泣きながら目を覚ましたのを覚えています。6月27日(土)と古いノートにありますから、拙老が満33歳になるちょうど前夜にあたります。

小ダヌキが生きながらカツレツになって、皿に載って運ばれてきます。パン粉の衣の下に。油で揚げられて白くなった肉が見えています。小ダヌキはまだ生きていて、手足をバタバタ動かして皿の上でウクルクル回ります。目に涙をいっぱい溜めてこういうのでした。「みんな雄々しく戦ったのに、ぼくだけは何もできなかったんです。だからこうなれって皆にいわれて、。カツレツにされたんです」。夢の中で、拙老は連れの老教授に大声で叫んでいました。「もうこんな料理はイヤだ!」

カツレツになったのはタヌキであって、拙老自身ではありませんでした。拙老はミゼラブルなタヌキを見ている第三者です。もっと正確には、タヌキの災難の目撃者です。ただ、この第三者はいささか過剰な感情移入をしています。その点を除くならば、この夢の場面運びは、いわゆる《夢の文法》における「転移」の原理を定石通りに踏まえているといえます。ここに前回少し申し上げた「夢人称」の問題が微妙にからんできます。つまり、夢では――以下これを夢空間あるいは夢界と称します――、一人称が直接現れることはなく、たいがいは三人称に仮想して登場します。今の場合、カツレツになった狸がそうです。このタヌキにはかなりの度合で拙老の一人称が「転移」していると見て間違いないでしょう。

思い返してみると、拙老は1970年代をずっと故知れぬ罪障感と共に生きていたような気がします。自分が生まれつき、それこそ先天的。先験的に深い罪業を背負っているような感じでした。理由のない自責の念とでもいったらよいでしょうか。傍目にはずいぶんお調子者のように思われていたかもしれません。しかし、飲んでいても冗談ばかり言っていても、いつも心中どこかでは自己懲罰への欲求がありました。罰は誰が受けるのでしょうか・

無意識は嘘を吐きません。意識の防御網が利かないところで、その網の目が破れたところで、ホンネは夢界の前舞台に躍り出ようとします。カツレツになった狸などは好例です。はとはいえ、油で挙揚げられるのは夢空間でも拙老の「私」ではなく狸なのです。してみると、夢は相当強力な防衛機構であるともいえそうです。(了)

 

2016-08-13 | 日暦

夢占

「夜さまざま物思いにふけり、いつ寝入るともなく眠りに入って自然に夢をみている」と、江戸時代中頃の文人柳沢淇園が随筆『ひとりね』に書いています。淇園はあの柳沢吉保から苗字を許された一族に生まれながら、武士=治者の生き方を嫌い、文人画家としてディレッタント的一生を選んだ変わり種です。少年時から英才教育を受けて育ち、えらく早熟で、十代から遊里に入り浸り、女体鑑賞にかけては一流の鑑識眼をもっていました。そんな淇園ですから、夢でもさぞや「夜ごとの美女」を堪能したと思うのですが、当人は不満げにこう書いています。

「たまたま恋しい人に会っても、相手はいっこう嬉しそうな顔をせず、自分があちらを向くと相手はこちらを向くという風に拗ねた姿を見せる、そしてその姿が男に変わったり、ひょいと硯箱みたいになったりして、いやはや何とも取り留めのないものだ」(92条)。

しかし、たとえそんな風に取り留めないものであり、「夢幻」という言葉があるように夢はまとまりがなく、定めないことのたとえにされるようなものであっても、昔はそれほど怪しいものだとは考えていなかったようだと淇園はいい、『周礼(しゅらい)』に見える「六夢」を引いています。①正夢②霊夢③思夢④窹夢(ごむ)⑤喜夢⑥懼夢(くむ)の6つです。それらを解釈して、未來を予測する夢占(ゆめうら)の材料にしたそうです。一々注釈することはしませんが、「喜夢」は「喜悦して夢みるなり」としているのが面白いところです。淇園にいわせれば、古代の聖人は「夢のようなものをさえ自分の心から出た物だとして、決して軽視されなかった」(『柳淇園先生一筆』)のですから、その夢を見たとき自分が喜悦している状態だったことはすこぶる大切なのです。

さて、これからお話する拙老の夢などは、さしずめ間違いなく「喜夢」に分類されるでありましょう。古い夢です。神戸に来て間もない1968年の頃のものです。青谷という場所にあった下宿の一部屋で見た夢です。拙老はまだ30歳そこそこの年齢でした。

不思議なことに、この夢の話者はI教授でした。拙老を神戸の大学に呼んで下さり、たいへんお世話になった人物です。夢中の出来事の一切は、教授の語りとして進行します。語られたことがすべて夢者、夢見人(ゆめみにん)たる拙老の目の前で起こるのです。それどころか、空気の揺らぎや水の波動の感覚もそっくり残っています。言い替えれば、I教授の話の中に拙老の五官がそのまま復原されていたのかも知れません。

青谷の下宿はいつのまにか浴室になっていました。まん中に置かれた大きな浴槽には硫酸銅の色をした湯が湛えられ、その中にI教授がゆったり漬かっていました。浴室の戸が開き、女子学生が一人、一糸まとわぬ姿で近づいて来ます。誰も入っていないと思っているようで、浴槽のへりをまたいで湯に漬かろうとします。が、すぐにI教授に気づき、キャアと羞恥の嬌声を発すると、両手で乳首と恥毛を蔽い、あわてて全身を湯に沈め、頭から水に潜って泡のように溶けてしまいました。

続いて2人目の女性が現れ、同じような仕草をして水に溶けました。その後も3人目、4人目、5人目と同じ情景が続きました。その一部始終を拙老は夢の中で眺めていました。

それから今日(2016年8月20日)までこの奇妙な夢を人に話したことはありません。I教授にも、あの夜夢に出現した往年の女子学生たちにも、です。固有名詞は差し控えますが、すでに他界した人もいますし、その後かなり体形の変わった方々もおあれます。しかし今からほぼ半世紀前には、皆さん、剥きたての水蜜桃のような肌をなさっていました。その実物は時間の風化作用によって見る影もなくなっているかもしれませんが、イメージは夢像の記憶に永遠に滅びることなく保存されています。

この夢はいろいろな概念を思い起こさせます。まず「夢の話法」、それに関連して「夢の人称」。拙老にはいまだに、この夢の主人公はI教授であるのに、I教授が登場する場面を見ていたのが拙老だったというカラクリが腑に落ちません。拙老はいったいどこにいたのでしょうか。能楽用語でいう「見所」という言葉を思い出します。普通、観客席を意味するとされますが、実際には夢幻能を見る人――ワキの見る夢をさらに一回り外から見る――という意味の超越的視座のようなものであり、ことによったら拙老はそんな視座にいたのではないでしょうか。(了)

2016-08-06 | 日暦

江戸町奉行と東京都知事

江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜は、明治の世になってからもずいぶん長生きしました。死去したのが大正元年(1912)ですから、32歳で政権を失ってから、たっぷり明治の45年間を生き抜いたことになります。明治政府は初めのうちこそ、安倍さんが石破さんを見るように警戒していましたが――たとえば西南戦争(明治10年)の頃まで――だんだん衛生無害と判断して、今度は逆にしかるべき処遇を与えなければならないと心配し始めました。

いつ頃のことだったのか、慶喜を東京市長にまつり上げてはどうかという話があったそうです。東京は明治22年(1889)年から昭和18年(1943)まで市制を取っていましたから、これは当時としての東京の首長になってもらうことを意味します。その時慶喜がしたと伝えられる返事がふるっています。「東京市長と申せば、町奉行のようなものではないか」といって、まるで取り合わなかったそうです。たしかに、天下の将軍だった人物に江戸町奉行なみの役職をあてがうなんて失礼きわまる話です。

では、江戸町奉行というのはいったいどういう官職だったのでしょうか。その職掌は、江戸に居住する町人の生活を、行政・立法・司法・治安警察・消防・災害救助など万般にわたって支配するというきわめて広範囲なものです。映画やテレビドラマでは、奉行所というと、白洲の吟味とか、八町堀の与力・同心に率いられた捕手たちとかあくどく庶民を苦しめる岡っ引きとかのシーンばかりが目に浮かびますが、あれはわずかに奉行所の司法機能ばかりが取り上げられているだけで、奉行所が持っている職務権限はもっと広いのです。犯罪者を取り締まるだけでなく、その法的根拠である法度(はっと)や禁令を公布するのも米価や諸色の値段を定めるのも奉行所の役目でした。立法権もあったのです。

風紀取締りはもとより、悪名高い文芸・思想統制など文教政策も奉行所の行政権に属します。それらいわば平時における職分の他に、幕末期には開国に伴って外国掛・開港掛などが新設され、幕府瓦解まで多事多難をきわめました。そして慶応4年(1868、9月に改元して明治元年)3月、江戸は無血開城され、5月15日に上野彰義隊の抵抗が鎮圧された後の19日、東海道鎮撫総督府から一片の通達が送られてきました。このたび旧幕府の町奉行所を廃止し、新たに江戸鎮台府を設置する、ついては南北両奉行所の建物施設及び諸記録一切を鎮台府に引き渡せという命令です。

引き渡しの任に当たったのは、南町奉行の佐久間信義でした。信義はそれまで平の与力でしたから、務整理のために奉行にされたようなものです。北町奉行には石川利政という人物がいたのですが、このどさくさに歴史の表面から姿が 消えてしまいました。公式には病死と発表されましたが、真相は自殺と見られているそうです。当時他に人材がないので佐久間が至急引っ張り出されたらしいのです。

東京都知事が江戸町奉行の後身だとは申しません。むしろ、その前身は江戸鎮台府――間もなく東京(とうけい)鎮台府と改称――にあると見るべきでしょう。東京の首長には、つねに占領地を統治する緊張感が潜在的につきまといます。敵地に乗り込んでこれをうまく支配する政治力が要求されるわけです。地方自治法とやらが制度化された後の東京都知事はまた別なのでしょうが、それにしても東京が江戸の治政を受け継いだことの原始記憶はまだ持ち伝えられていると思います。

それが証拠には、このところ、東京都知事のポストをただ名聞欲・金銭欲・権力欲のために利用しようとなさった方々――あえて固有名詞は出しませんが――は皆さんしくじっておいでです。歴代江戸町奉行は最後の佐久閒信義まで全部で114人を数えますが、その中で人々の記憶に残っているのが大岡越前守忠相(ただすけ)と遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元(かげもと)――有名な「遠山の金さん」です――ぐらいのものであることと無関係ではないでしょう。人気のある町奉行はすべて民情をよく解し、民政に力を注いだ人物ばかりです。

今回都知事になられた女性政治家の手腕は未知数ですが、このポストについて回る歴史定数のごときジンクスとして忘れないことが大切でしょう。公約やらスローガンやらは、付け焼き刃だったらすぐ剥がれます。最近は「東京都民」などとだいぶふやけましたが、まだ健在なはずである生き残りの江戸っ子は目だけは高いのです。(了)

2016-07-30 | 日暦

蝉しぐれ

すぐ左IMG_0117の写真はクマゼミヘルパーさんに撮ってきてもらった宮川河口付近のセミです。いかつい頭部と柄にもなくすきとおった翅から、クマゼミであることは一目瞭然です。このところ毎朝セミの大合唱に驚かされる季節になりました。一頃まではジージーと諸声(もろごえ)に鳴き立てるのはアブラゼミときまっていたのですが、最近とんとアブラゼミを聞かなくなりました。もうこの辺では淘汰されてしまって、関東に行かなければ聞けなくなっているのでしょうか。

5年ほど前。六甲の山上でミンミンゼミを聞いてびっくりしたことがあります。その数年前、『江戸の風格』の取材のため東京中を歩き回っていて、皇居の北丸公園でミンミンゼミの鳴き声になつかしさを感じました。どちらも珍しさがあったからそう感じたわけで、考えてみればその頃ごく普通に耳にしていたのは、アブラゼミだったのではないかという気がします。(左端の写真――https://ja.wikipedia.org/wiki/アブラゼミ――参照。翅が茶褐色です。)拙老がこんな風に地上でうろうろしている間に地下ではセミたちの種属保存競争がすさまじく展開されて勝負がついていて、いま毎朝シャガシャガと聞こえているのは、勝ち誇ったクマゼミの雄叫びかもしれません。

日本の古典文学にも蝉はもちろんよく登場しますが、まず人々の心に留まったのは、その声からだったようです。やたらによく人間感情に共鳴してくれる虫だというのが第一印象だったのでしょう。だいたい『万葉集』には蝉を詠んだ歌は少なく、全部で10首しかりませんんが、その大部分がヒグラシだというのも何だかわかるような気がします。

3617  いわばしる滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ(巻15、遣新羅[しらぎ]使らの歌のうち大石麿麻呂)

3620  恋繁み慰みかねてひぐらしの鳴く島影にいおりするかも(巻15)

この2首はどちらも外交使節として新羅国へ旅立つ途中、安芸国長門島(あきのくにながとじま)という所で作った歌です。前の歌は、蝉の声から都(当時は奈良)を思い出すという都偲びの歌ですが

さてここで都を思い出すよすがになった「蝉の声」はどういう種類の蝉のものでしょうか。ヒグラシが「滝もとどろに」鳴き立てることはまずないように思うのですが。それとも奈良時代にはヒグラシも大合唱したのでしょうか。後の方の歌は、折口信夫が、「あまり恋しさに、心がなだめられないので、今日の旅はやめて、蜩(ひぐらし)の鳴いている島の蔭に、小屋掛けをして泊り込んだことだ」(「口約万葉集」)と訳していますが、ここでも作者は、セミがヒグラシであると特定しているあけで、その鳴き方には別に注意を払っていません。ゼミはただ「鳴くもの」と印象されればよかったのです。

平安時代になって、和歌が宮廷文学化すると、セミも新しい感覚でとらえられるようになります。今までよく鳴く虫としてもっぱら聴覚的なイメージで詠まれていたのが、あらたに視覚的にも見られることになります。蝉の抜け殻が人々の目に留まったようです。早くも『古今集』に2,3の例が見られます。

448  空蝉のからは木ごとにとどむれど魂(たま)の行方を見ぬぞ悲しき(巻10物名 読人不知

831  空蝉はからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶりだに立て(巻16哀傷歌、僧都将延)

見られるように、ここには「空蝉」という新しい語彙が用いられている。なるほど「うつせみ」という4音節の言葉はありましたが、それはたとえば「古昔(いにしへ)もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき〈万葉集1‐13、天智天皇〉」という有名な大和三山の歌にあるとおり、「現実」とか「現世」とかを意味する語でした。特に「蝉の抜け殻」を指してはいなかったのです。それがこの言葉=イメージの出現以来、字面で干からびている茶色の奇妙な物体を意味するようになりました。次の『古今集』の2首には「空蝉」という言葉こそ出てきませんが、蝉の翅の薄さ、はかなさ、たよりなさといった一系列の連想複合体が出来上がっていることを示します。

896  蝉の羽の夜の衣は薄けれど移り香濃くも匂ひぬるかな(巻17雑上、紀友則[きのとものり])

1035 蝉の羽の一重に薄き夏衣馴れば寄りなん物にやはあらぬ (巻19雑体、凡河内躬恒{おおしこうちのみつね})

どちらも撰者の歌です。歌の作り方も技巧的で、「蝉」はどちらも「衣」の縁語や序詞になっています。

その場合、「空蝉」の一語がどんなに含蓄豊かだったかがわかります。その功績は一にかかって『源氏物語』の巻名にもなっている物語歌に帰されます。光源氏が人妻を誘惑し、女は男に肌身を許すスレスレのところで、下衣だけを後に残してするりと抜け出る、エロテイックな場面です。人妻の名は「空蝉」。ひとり取り残された源氏は未練タラタラこんな歌を詠みます。女の方も満更ではないようです。

(光源氏)空蝉の身を変えてける木(こ)のもとに猶人がらのなつかしきかな

(女、返歌ともなく)空蝉の羽に置く露の木がくれて忍び忍びに濡るる袖かな

日本の感受性の基底には、この「蝉」を一例として、千年にもわたる文学伝統の中で培われた複合連想作用の働きで。しっかり安定した構造を具えたものが多くあります。その意味では、人性の自然が文芸を模倣するのです。

昭和は遠く成りにけりと申しますが、1945年8月15日のことを思い出します。暑い日でした。空が抜けるように青かったのを覚えています。正午から玉音放送があり、終わってからも町は変にしーんと静まりかえり、路上には人影がありませんでした。蝉の声がいやにやかましかったです。(了)

2016-07-23 | 日暦

わが元禄

「元禄」という年号には一種独特の明るいイメージがあります。現代人が過去のこの時代を考える時まず思い浮かべるのは、「元禄模様」「元禄小袖」「元禄見得」といった何かしら陽性の想念であるようす。盛り場にある飲食店の名前を考えても、割烹「元禄」、小料理「元禄」、バー「元禄」などはいかにもありそうですが、クラブ「享保」、サロン「天保」なんてのがあろうとはちょっと想像できません。景気がよくなければダメなようです。

でも、そう思うのは拙老だけのことで、もしかしたらそれにはこれからお話するような個人的な記憶が関係しているのかもしれません。

前世紀の60年代の中頃、京都は京坂三条の終点駅の真ん前に、「元禄」という名前の大きなキャバレーがありました。入ったことは一度もありません。当時、筆者はまだ学生の身分でしたから、前を通り過ぎただけです。だが、分厚いドアガラスの向こうから伝わってくるバンド音楽やさざめきの気配からは、そこに自分とはかけ離れた世界があることが漠然と感じられました。

その後数年して、このキャバレーは閉鎖されたと噂に聞きました。有名な暴力団の幹部が客席で殺されたのがきっかけだったそうです。そんなわけで店そのものは消滅したのですが、店名の「元禄」だけは不思議にずっと記憶に残った「げ、ん、ろ、く」という言葉の響きには、何か派手なもの。華やかなもの、うつろうもの、やがて滅び去るものといったどこか二律背反的な美意識の連想がついてまわります。おまけに、思い切った行動にいつも伴いがちな暴力的な血の匂いのようなものまでが加味されています。

元禄の年号が筆者に引き起こす連想の一部には、どうも昔京都の盛り場でちらりと覗いて見た奇妙に遠い世界の残像がこびり付いているような気がしてなりません。そこは重いガラス扉に距てられた禁断の園であり、疑いもなく、一介の素寒貧(すかんぴん)学生には手が出ず、及びもつかない美女と札束と官能の幻がきわどく渦巻いていました。

現代日本から想像する元禄年間(1688~1704)は、われわれに一種独特のものなつかしい親近感を覚えさせます。基底にあったのは、永久に続くと思われた経済成長、人間だれしも才覚と運さえあれば金儲けができるという信念であった。門地や生まれに関係なく成功を掴めるという明るい気分が世に満ち満ちていました。現代日本も一時はたしかにそうでした。今から60年ほど前、「昭和元禄論」というのが一世を風靡したのを思い出します。日本経済に「神武景気」が訪れ、やがて国中がバブルで沸き返る以前の時代です。

昭和が「元禄」なら、平成はさしずめ「享保」でしょう。江戸時代のすべての改革政治は例外なくデフレ基調の緊縮経済です。後期の二大改革――寛政と天保――お手本を享保に求めました。元禄の昔に帰れというスローガンが叫ばれたことは一度もありません。きっと元禄精神の根底に何か野放図で、アナーキーなものを感じるからでしょう。

最近は、昭和の出来事がセピア色に染まって蘇るそうで、つまり昭和を語ることはもう歴史小説になる時代です。それで肚を決めました。拙老がめざすのは、元禄を舞台にした現代小説を書くことです。歴史といい、現代といい、その間はただ一筋の均質な時間がつないでいるだけなのですから。

2016-07-16 | 書窟

野坂昭如著 『男の詫び状』

男の詫び状

野坂昭如『男の詫び状』  (文藝春秋)

野坂昭如氏の死後出版になった『男の詫び状』は、生前親交の深かった友人知己37人との間で取り交わされた往復書簡集です。人間にはいろいろなつきあい方があるものだと感服しますが、氏は同年代・年下の世代とそれぞれのいいところを取り上げてうまく友情を育てています。それが最晩年に至ってもこれだけ豊富な人脈を持ち伝えていられた理由だと思います。

野坂氏はいったい何を「詫びる」というのでしょうか。氏自身の言葉でいえば、「今の日本は戦前の形に似ている。このままいけばまた同じあやまちの繰り返しか」「お先真っ暗の日本の姿が見えてくる。それでもぼくは語り継ぐ。義務感とか責任感というよりも、後ろめたさのあらわれであろう」(桜井順宛)と戦争を語り切れなかった昭和ヒトケタ世代の後ろめたさを述懐するということにあるようです。

この「後ろめたさ」は、なるほど、本書の主感情ではあるでしょう。しかし、ただやたらにその感情を言い立てるだけでは、一種調子のよい無限責任感と紙一重のものになってしまうのではないかと思われます。戦争の悲惨を訴えることが容易にお涙頂戴に転化しかねないことの気恥ずかしさに対して、氏が羞恥に近い気持を持っていた事情は、本コラムの先々回『七十九歳の将来』で、氏がテレビ出演中に『火垂るの墓』に見せた特別な反応から推測した通りです。あの真面目な酔っ払いぶりはなまなかの「後ろめたさ」で出来ることではありません。

現に氏は、前引した桜井順氏――作曲家、作詞家、野坂氏のCMソングをいくつも書いている――への手紙にも記しています。「桜井さんもぼくも、時代の恩恵を充分に受けてきた。その上、医療も年金も、ぼくらまでは大丈夫。くたばるまでお国が面倒をみる仕組み。」氏は、こうした「時代の恩恵」を受けながら、なお「後ろめたさ」を喋々(ちょうちょう)することの――何といおう――むしろ「居たたまれなさ」でいっぱいなのです。

往復書簡に名を連ねている37人のうち、早くも何人かが他界されました。たとえば永六輔氏の訃報は去る7月11日にもたらされたばかりですが、氏は、その故永氏を上司として音楽グループ「冗談工房」で仕事をした時のことをこう回想します。「専務としての仕事をぼくは接待と受けとめ、費用は経費と思い込み、毎月五十万円ほどを勝手に使い、これが問題となってクビ。いい加減な部下を持ったボス、永さんの悲劇。」湯水のようにカネを使ったみたいです。いつも輝いていて、世話になりっぱなしだった先輩に対する「ねたみ」が自分の起爆剤だったといえる所がさすがは野坂氏です。自己自身にも複眼を向けています。

この機会に氏の旧著から『文壇』というのを見る機会がありました。昭和36年(1961)の文壇デビューに始まり、同43年(1970)の三島由紀夫の死のニュースまでの8年間を一時代として切り取る世相史とも読めますが、やはり何といっても野坂氏を中心人物にした文壇人物誌であるからこそ面白いのです・

どうしたはずみか、拙老の名前までか同書中に出て来ます。

「(新宿駅)西口の柏木町青梅街道に面し「未來」、二階にあるこの店の窓から、墓場がみえるので、かく名づけたとかで、主な客は詩人。種村季弘、竹中労は週刊誌『女性自身』の記事を書き、野口武彦、酒は飲めない『ヒッチコック・マガジン』編集長中原弓彦も時に姿をみせ、書き下しあがったと笹沢左保。詰めて十人ほどの店に、埴谷雄高、田村隆一、篠田一士、水上勉、井上光晴などが連夜当たり前にいた。」(文春文庫p.38)

もとよりその頃も現在も、木っ端でしかない拙老の名が、どうしてまたこんな錚々(そうそう)たる顔ぶれの間に差し挟まれていたのかは謎としかいえませんが、あの店で氏の黒いサングラスの目に留まっていたのかと思うと冷や汗が出ます。こちらの方では、お目に懸かったという記憶はまったくありません。ひどい酔態でなかったことを祈るばかりです。

「未來」で思い出すのはこんなことです。まだ大学院生だった頃のある晩、仲間とテーブル席で飲んでいたわれわれは、偉い人たちが来店されたといって、たちまちマダム――やかましくツケを取り立てたので、拙老などはミミズク婆ァと呼んでいました――にカウンター席(例の墓場が見える場所)に追いやられました。新客は三人連れで、丸山真男氏と、神戸大学の猪野謙二氏と、それから誰かもう一人でした。

拙老たちは至近距離でお三方がしきりに談論風発されるのを拝聴していました。話題は第2次世界大戦前のドイツ映画のことでした。みんな熱心に『会議は踊る』の話をしていました。そのうちに丸山氏が「えーと、誰だっけ? あのメッテルニッヒをやった俳優」とおっしゃっているのが聞こえました。他の二人は咄嗟(とっさ)に思い出せないようでした。そこで拙老すかさず、「コンラット・ファイト」と側から口を出して当座の面目を施したようなわけです。

その座には猪野謙二氏も居られました。そしてどうやら、拙老がその後長く持つに至った神戸大学との縁はどうやらこの時できたようです。

2016-07-09 | 日暦

蝶の盛衰

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アオスジアゲハの羽化

最近、町中で蝶を見かけることがめっきり少なくなりました。拙老の少年時代には至る所にモンシロチョウやモンキチョウがひらひら飛び回っていました。第2次世界大戦後の東京にはみごとに自然が復活し、一面の焼野原は武蔵野の再来を思わせるほどでしたから、雑草の茂みも、家庭菜園の一部として菜の花畑もたくさんありましたから、蝶類も自然に繁殖できる環境があったわけです。白いのや黄色いのが毎日屈託なげにそこらへんを舞っていました。ヒョウモンチョウという色も柄も地味な種類のもいて、自信なさそうに地面にはいつくばっていました。

今回掲げた写真は蛹(さなぎ)から出たばかりのアオスジアゲハです。芦屋の町では、庭先によく見かける種類にアゲハチョウ科のものが多くなりました。それも普通のキアゲハではなく――カラタチの垣根が少なくなったせいでしょう――カラスアゲハとかこのアオスジアゲハとかを目にします。大型の蝶が多いです。山や木立ちが近いからでしょうか。蝶ではありませんが、蛾の珍種であるオオミズヒキがマンションのドアに止まっているのを見たことがあります。

さて、アオスジアゲハのことですが、この蝶はアゲハチョウ科にはめずらしく、ふだん翅(はね)を閉じて止まるそうです。翅を縁取っている黒い部分は鱗粉ですが、アオスジの名の由来である前翅・後翅をぶちぬく青緑色のベルト一帯には鱗粉がなく、透き通っているとのことです。鱗粉は体毛が進化したものですから、これを発生史的に眺めれば、この蝶の翅は、まん中の大切な部分が無毛状態で、スケスケのスッポンポンでお目見えしているわけです。そういえば、この蝶から華麗な翅を剥ぎ取った後の正身は必死で生きようともがいている裸虫の姿を曝しています。蝶はつくづく全身がエロティックな生き物なのです。肉感的だとさえいえるかもしれません。

昔から日本にはたくさんいたに違いないのに、『万葉集』に「蝶」という言葉は一語も見えないそうです。意外な感じがします。また、「蝶」に該当する大和言葉も使われません。古語では「かはびらこ」といったという実例は『新撰字鏡』『今昔物語』に見つかるということですが、後世に伝わりませんでした。決定的なのは歌語にならなかったことです。『二十一代集』の歌には「蝶」という外来漢語のままで歌われます。ハイカラな趣味だったのです。一例を挙げましょう。『詞花和歌集(しかわかしゅう)』(1144成立)の一首です。

◯百(もも)とせの花に宿りて過ぐしてきこの世はの夢にぞありける

作者は大江匡房(おおえのまさふさ)。当代切っての漢学者・知識人らしく、頭でこしらえた理知的な歌です。踏まえている故事は『荘子(そうじ)』「斉物論()せいぶつろん」の荘周が夢で胡蝶になったという有名な寓話です。文学語としての「蝶」は、こんな風に高尚でちょっとペダンティックな趣を帯びていました。

それにひきかえ、文学以前の民俗伝承や俗信の領域では、蝶は持ち前の肉感的でエロティックな生態から発散する幻想を広げてきました。蝶はいつも死の予感およびそれと背中合わせの繁殖への衝動に駆り立てられて瞬時瞬時を懸命に生きています。少なくとも、そういう必死の姿を連想させます。そのせいか、蝶をめぐる言い伝えにはどこか不吉な影が差すものが多いように思われます。

『虫めづる姫君』という一風変わった王朝物語があります。ヒロインは蝶を愛でるなどという月並みなことはしません。「蝶はとらふれば手にきりつきていとむつかしきものぞかし(蝶は捕まえると手に鱗粉が付いて気色悪いたらありやしない」と言って、自分では毛虫・カマキリ・カタツムリなどを愛玩する女性です。この特異な嗜好には一種屈折した淫乱さ――鱗粉の生臭さへの鋭敏な感受性は、たとえば思春期の少女が父親の下着に示す潔癖症的な嫌悪感を思い起こさせます――などは、間違いなく蝶独特の生態に連動しています。

昔は、大量の蝶の出現は兵乱の兆しと考えられました。『吾妻鏡(あずまかがみ)』の宝治元年(1247)3月の条には、黄蝶が群飛して鎌倉中に充満し、古老は平将門の乱の時もこうだったと不安がったそうです。江戸時代の延宝8年(1680)閏8月6日には、大風雨のさなかに数十万匹の黄蝶が異常発生ました、。暗君(5代将軍綱吉)が出たからだという人もいました(戸田茂睡(もすい)『御当代記』)。宝暦年間(元年は1751)、江戸両国の回向院(えこういん)には多量の蝶の死骸を埋めた蝶塚があった、と大田南畝が 書いています(『金曾木(かなそぎ)』)。この話に信憑性があるのは、弘化⒋年(1847)9月、信州でまっ白な小蝶が死んで天から降り積もり、所によっては』地面に15~18センチも堆積したという記録が残っているからです。しかも一匹がきちんと2つずつ産卵してから死んだそうです(『天言筆記』)。この変な律儀さが蝶の不気味さです。

戦後間もなく、拙老がまだ純粋無垢な学童だった時代のことです。その頃、人々の婚礼はそれぞれの生家で、家族・親戚・近所の衆が集まり、つつましく挙行されたものでした。当時の慣わしに「雄蝶・雌蝶」という役がありました。新郎新婦が飲み交わす三三九度の盃に銚子から酒を注ぐ附添です。10歳未満の少年少女が選ばれることになっていました。ちゃんと小笠原流の礼法にも定められています。その時、雌蝶を勤めた女の子――たしかアサコという名前でした ――とは、それからずっと会っていませんが、どうしているでしょうか。

2016-07-02 | 日暦

79歳の未來

今年の6月28日は拙老79歳の誕生日でした。世の中では誕生日を個人的な祝日のように扱うようですが、当人としましてはそう「めでたい」とばかりは言っていられません。先立つものはカネという言葉がありますが、この年齢になると「先立つものは時間」というのが正直なところです。「人生の残り時間」は着実に目減りしてゆくのですから、それを見越した生活設計が必要だと痛感しています。

何にしても、人間は手持ちの札で勝負するっきゃありません。預金残高ならぬ「余時間残高」で最終ゲームに臨むしかないわけです。ところが困ったことには、この残り時間ばかりはあらかじめ計算できないのです。予想することにもあまり意味があるとも思えません。まあ、ゲームは今やロスタイムたけなわであり、夢中でプレイしているうちにいつか最期のホイッスルが鳴るが、当人は気が付かない――そんな風にシアワセに終わるだろうとしごく楽観的に考えています。

若い頃は、文学の諸先達の享年を調べてそれより拙老が長生きしていたら満足でした。芥川龍之介や太宰治などの自殺組は別として――もちろん、三島由紀夫もです――夏目漱石の49,森鷗外の60はとうにクリアーしました。泉鏡花は65歳でしたから、これもいつしかスルー(和製英語ではありません)。とうとう谷崎潤一郎の79歳に肩を並べました。もっとも、拙老は80まで生き延びなければ、記録を抜いたことにはなりません。

こういう年齢になったら、人はいったいどんなことを考えるのでしょうか。うまい具合に、谷崎潤一郎が絶筆になった『七十九歳の春』という文章を書き残してくれています。「当時私自身は、必ず生きて見せるというほど力み返る気にはならなかったし、死んだら死んだで仕方がないと、半分はあきらめるようにもなっていた」と、ごく淡泊に自分の状態を受け入れていたようです。自分がどれだけ死に近づいていたかは、当の本人には案外わからないものだということもありますが、拙老は谷崎のこういう心境になんら虚飾はないと感じます。谷崎は決して嘘を語っていません。

しかし、谷﨑潤一郎よりももっともっと参考になる実例が身近にありました。2015年12月9日に物故された野坂昭如氏です。しかも氏は12年前の2003年5月26日に脳梗塞で倒れ、その後、72歳から85歳まで闘病生活を送られています。幸か不幸かご生前にお目にかかったことはありませんでしたが、拙老にとっては長いこと無関心ではいられない存在でした。野坂氏が2004年から死の直前まで綴った日記が、『絶筆』と題する単行本として刊行されています。何事にも先達はあらまほしきものと申しますから、勝手ながらこれか勉強させていただきます。

「ぼくは、日本の高齢化は一過性のものとみている。昭和ヒトケタ生まれから十歳ぐらい下までが、最期の長生きする世代じゃないか。」(2011年11月某日)

氏はこの年81歳でした。右の言葉が我田引水でない証拠にはその後85歳まで長生きされ、「老境の醍醐味」を満喫されたのです。あやかりたいものです。この予想ないしは予感には拙老も共感します。拙老ら昭和10年代生まれもやがて老熟するでしょう。けれど、「老」いるのは確実ですが、果たして「熟」するや否や。こればかりは公約できないのが悲しいところです

野坂昭如氏といえば、あれはまだ前世紀の末の頃。ある関西の民放のテレビ番組に出演していたのを見た記憶があります。『火垂るの墓』を話題にした番組でした。野坂氏は酔っ払っていました。肉身の妹の死ををモデルにした話で大ヒットしたことに自分は深い居たたまれなさを感じる、という主旨のことを話されたのですが、そんな述懐はとてもシラフで語ることはできない――そのことを感じさせる痛々しい酔態でした。

その番組にはレギュラーとしてよく顔の売れた漫才師が出演していました。女性のコンビもいました。野坂氏が何者か知らなかったのかも知れません。野坂氏がただ酒気を帯びて職場を荒らしに来たとしか見えなかったのでしょう。怒って、憎悪の光さえ目に浮かべて氏を非難し、あまっさえ氏の頭にヘルメットを被せて、みんなで紙の筒でポカポカ殴りました。野坂氏はじっと自己懲罰に耐える風情でしたが、男女の漫才師の表情には露骨な反知性主義がありありと見えました。

この時ほど強く、野坂昭如氏の孤独を感じたことはありません。孤独である限り、この作家がポピュリズムに陥ることは決してないでしょう。(野口武彦記)

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